2002年07月14日
4thアルバム『I am...』について
4thアルバムについてようやく語るときが来ました。「談話室」の方で既にさまざまに語り尽くされた感があり、何を今さらとも思えますが、じょいじょいはじょいじょいなりの感性で語ってみたいと思います。それにしても発売後すでに6ヶ月が経過しているんですね。今さらじょいじょいがこんなものを出しても、気の抜けたサイダーみたいでほとんど意味がないかもしれませんが、前に進むためにはやはりどうしても通らなければならない道だと思っています。
その前に、これまでリリースされたオリジナルアルバムについてごく簡単な総括をしておきましょう。
1stアルバム『A Song for XX』は、専務が全力を傾けて売り出しただけあって、楽曲にも恵まれ、デビューして半年やそこらの新人が出すファーストアルバムとしては異例の質の高さ、充実ぶりを示していると思います。
もちろん、まだアーティストとしてのayuのスタンス、方向性が定まっていない時期に出されたため、どうしても玉石混淆の感は否めません。プロデューサーとしても一応、十代の新人ソロ歌手の通例にしたがい、アイドルPOP歌謡的な部分を完全に排除するだけの勇気と自信はまだなかったに違いありませんし、また楽曲の提供者たちも、ayuの特質を捉えたうえでの楽曲提供というところまでには至っていなかったため、やはり少なからずアイドルPOP歌謡的な楽曲提供を意識していたように思われます。
にもかかわらず、そこに収録された多くの作品は確かに4thアルバムが出た現在にあっても依然、珠玉の光を放っており、そのいくつかは間違いなくayuの代表作となっています。
ayuの紡ぎ出す独特の詞の世界は、決して若いアイドル歌手が話題づくりのために「ちょっとチャレンジしてみました」的に作詞を手がけたものと同列に扱うことのできない質の高さとオリジナリティに溢れています。まさに専務が感嘆したように「この娘はどういう10代を送ってきたんだろう」と思わせるものになっています。
そしてそれに、菊池一仁を始めとするいままさに花開こうとしている新進気鋭の作曲家陣・アレンジャー陣のエネルギーと天才とがあいまって、フレッシュな感動と驚きを私たちにもたらしてくれています。
何よりも、それまで言いたいことをうまく周囲とコミュニケートできなくて、心の中に長年の間、積もり積もって悲鳴を上げていたさまざまな思い、その思いを表白し解放する術を「歌」というものに見い出すことのできた喜び、そしてそれを可能にした「心の肉親」(専務とnatsukiさんのことですね)との出会いの喜びが、このアルバムを求心力のあるものにしているといえます。
次に2ndアルバム『LOVEppears』ですが、これはayuが「アーティスト」としての自分の居場所をある程度見定めることができ、ようやくうち解け信頼を寄せることのできるようになったスタッフに囲まれた中で完成された作品であり、後世に、ayuの「第1期黄金時代」を象徴する作品と称せられるだろうと思われる円熟した作品に仕上がっています。個人的にはいまのところayuのアルバムの中で最も評価する作品です。
特筆すべきは、作曲家D・A・Iとの出会いです。これが、内省的なayuのパフォーマンスに振幅と深みをもたらす結果となっています。
3rdアルバム『Duty』についてはすでにこの「ピリ辛いため」で論じました。
アーティストとしての人気と評価を獲得し、どちらかというと苦手と感じていたライブも見事に成功させた直後の作品として、このアルバムには、余裕とそこから来る実験的試みが随所に見られます。しかしその実験が少なくともじょいじょいにとっては、間違った方向での実験に感じられ、前回の3rdアルバム『Duty』のとき、私は「純粋に曲(+編曲)と詞の2点から評価すれば、非常に高得点を与えることができる」が「それだけに、歌い方と声の状態が残念で仕方ありません。ayuとしては曲に合わせて歌い方を臨機応変に変えているつもりなのでしょうが、結果的には失敗している」と論じました。そしてこの思いは今でも変わりありません。ごく簡単に総括すると、どの作品も素材(詞、曲)としては非常に芸術性の高いものを持っているにもかかわらず、ツアー終了からの制作期間があまりにも短すぎたために、シンガー(歌う楽器)としてのayuの仕上がり(回復)具合も含めて、熟成と味付けの調整が足りなかったということです。
さて、そしてこの4thアルバムです。
(なお、詞を参照したい場合は、適宜、JASRACの承認を受けた「恋人達の指輪」もしくは「ayumi-hamasaki.com」をご覧下さい)
1.構成について
このアルバムが出た当初、当サイトの談話室でも、ジャケットの意味とタイトルの構成の相関性について、さまざまな議論がなされたのを記憶しています。しかし結局私はそこに確とした意味づけを読みとることができませんでした。
ジャケットが夜明けから夕暮れまでの砂漠の一日を時系列的に描いていること、鳩が平和のシンボルであり、おそらくあのアメリカの衝撃的な同時多発テロに触発されたものであろうことは当然読みとれますが、それ以上のことをあれこれ詮索してみても、深読みのしすぎにしかならないように思えます。たとえばayuと鳩がともにいるページと鳩がいなくなったページとayuも鳩もいなくなったページにそれぞれ特別な意味があり、それがその各ページに掲載されたタイトルの説明になっているというような説です。
では、このアルバムに収録されたタイトルの順番に意味はないのでしょうか。これについてもいろいろな議論が繰り広げられた記憶がありますが、私の読みはきわめて単純です。
このアルバムは大きく3つの部分からなっています。
そしてその3つの部分が2つのInstrumental作品で区切られています。
最初のブロックは「I am...」の1曲です。これはアルバムタイトルになっていることからもわかるように、アルバムの自己紹介、序章にあたるものです。
次のブロックは、「Connected」〜「Daybreak」までで、ロック調、電子楽器系、どちらかというと「動」の作品を集めています。
そして最後のブロックは、「M」〜「Endless sorrow」までで、どちらかというとバラード調、アコースティック系、「静」の作品を集めています。
この構成が成功だったかどうかはちょっと疑問です。初めてayuの作品に接する人にとって、最初の数曲の印象は大事だと思うのですが、この構成では、ayuというアーティストの性格に偏ったフィルターが掛けられてしまう可能性があると思うからです。つまり、いきがってRockっぽく振る舞おうとしているけど全然なりきれていないJ-POPシンガーだというように。また似たような曲が続くことになるので、飽きられやすい、あるいは2曲目以降のインパクトが弱くなるという問題があります。
同種の曲をまとめるよりむしろ適当に散りばめた方がよかったと思います。
2. 各作品の評価
■「I am ...」 (作曲:CREA 編曲:Tadashi Kikuchi + tasuku)
とにかく「痛い」。この尖った痛さを聴き手に思いっきりぶつけることがこの作品の目的だとすれば、この作品は十分にその目的を達成していると思います。 ただそれを素直に受け入れられる人と、その過剰な自我の表白にちょっと引いてしまう人とに受け手がはっきり分かれるに違いありません。
この作品には、ayuの最近の作品にしばしば出てくるモチーフがやはりいくつも現れてきます。ひとつはファンや周りの人々にちゃんと「伝わ」っていない、本当の自分を解ってもらえていないという嘆き。そして、「生き急ぐ」ことから逃れられず、またそれを良しとする「滑稽」ですらある創造者としての自分、「矛盾だらけの」自分。そしてかつて「永遠」という言葉で表現しようとしたものとどこまで同じかはわからないけれども「たったひとつの言葉」を探し求める求道者としての自己の再表明。
ayuの抱える根深いトラウマについては、また別の機会に論じようと思いますが、自分の本質、本意を周囲や肉親や分かってほしい人たちにわかってもらえていないし、わかってもらえるように行動できない焦燥感とそんな自分への侮蔑、周囲との深い溝を、ayuはおそらく小さい頃からずっと抱えていて、アイドルタレントや女優になりそしていまこうやってアーティストとして活動を続けるのも、ひとつにはそういうアリ地獄から何とかして逃れたいという(無意識の)目的が根底にあるように思います。
これらの悲痛な叫びを痛々しくも共感を持って受け止めことのできる人は幸せです。そういう人たちはきっと、今を生きるayuを心底から好きなのでしょう。一方、昔からのファンの中には、熱烈なファンでありながら、いや熱烈なファンだったからこそ、「あたし、あたし、あたし、…」という自意識過剰な押し付けがましさに閉口したり、「どうか解って そんな事を言っているんじゃないの / どうか気付いて こんな物が欲しいわけじゃないの」と言う割には、自ら好んで誤解されるような行動ばかり取ってきたじゃないかと感じられる人もいるのでは?
ただ、それでも感心させられるのは、解ってもらえないとか生き急ぐだとか矛盾だらけだとかの自己表明、自己憐憫、あるいは聴き手によっては自己弁護だけにとどまることなく、最後にしっかり「私はずっとたったひとつの言葉を探してる」というayuのアーティストとしての存在理由を宣言するのを忘れないところです。この言葉が単なる流行歌手ではないayuの思索性・哲学性を浮き彫りにし、このアルバムのプロローグとしてのこの作品の価値を明確なものにしているといって過言ではないかもしれません。
そしてまた、これは本質的ではありませんが、この最後のフレーズをあたかもサイボーグかロボットのようなデフォルメされた声でとつとつと歌い上げたところがいかにもayuらしい技巧で、思わずあのTUKAのサイボーグayuのCMを思い出してしまったのは私だけではないでしょう。
■「Connected」 (作曲:Ferry Corsten 編曲:Ferry Corsten)
この作品を初めて聴いたとき、真っ先に「WHATEVER」を思い出しました。オリジナル曲自体がすでにリミックスの様相を呈していることがそうさせたのだと思いますが、それと同時に、残念ながら、曲の斬新さに比べて、詞の方が他の作品に比べると、いまひとつ掘り下げ方が足りないところも共通していると思います。
ただこの作品の出来上がった経緯を考えればそれも仕方がないことかも知れません。 この作品は作曲者のFerry Corsten(彼は世界的に有名なRemixerでもあります)がまず曲を完成させ、ayuにぜひともこの曲に詞を付けてほしいと依頼してきて、ayuがそれを快く受諾したという経緯から出来上がったものです。
その際にayuは、外国人のFerry Corstenが日本語の意味を理解できなくても分かり合えるような詞を目指しました。その結果、詞の意味よりもむしろ語感を重視し、韻を多用したあの「ミカケテ ミツケテ ミサダメテイル …」というフレーズが誕生したわけです。
しかもいかにも常識にとらわれないayuらしいといえるのですが、この詞は依頼者Ferryへの私信の役割をも果たしています。「自分たちは別々の言語を使っているけれど、それでもこうやって言葉というものを通してお互いの気持ちを伝え合い、解り合うことができるんだね−」と。そしてこれはFerryだけでなく、私たちみんなへの問いかけにもなっています。「私たちを結びつけている言葉というものを深く考えれば考えるほど増してくる、その重みと不可思議さ。みんなもちょっと考えて見ようよ」と。
これは優れて哲学的なテーマですね。そしてこの難しいテーマを何のためらいもなく作品の中心にすえてしまうのもいかにもayuらしい。そう、このアルバムのひとつの特徴は、このような抽象的なテーマやメッセージ性の強いテーマについても臆せずファンの前に提示する決断が出来るようになった点にあるといえるでしょう。この傾向は前作の「Duty」で既に芽ばえていますが、ここへきて完全に一歩踏み出したわけです。
ayuは元来、そういう抽象的な問題をあれこれ思索することを好むようです。
例えば、2000年元旦のラジオ番組での新年会で次のように発言しています。ayuのいわゆる「永遠」論のくだりです。(実際には各発言の間に、他の出演者の発言が入ります。
「だから、記憶の中なわけよ、永遠っていうのは」
「だから、記憶がない人間には、永遠はないわけよ。記憶を持ってるから、その過去があるからこそ永遠があるわけで、過去を捨てた人間には永遠っていう言葉はないわけよ」
「でしょ、そこに気付いて…。 みんなはね、永遠っていうのは未来の所有物だと思ってるわけよ」
「違うんだよ。そんなことをね、毎日家で一人で考えてるんだから。暗いでしょ?(笑)」
いろいろな情報ソースから推測するに、ayuと専務は折につけ、音楽論や人生論などについて議論を戦わせてきた形跡があります。ふたりはそういう人生の深いところで互いを理解し合う間柄として今日に至っています。その間、いろいろな理由で疎遠になったり、実際物理的に遠ざかったり、そしてまた互いを求め合い、接近したりということを繰り返してきたと思われます。
この作品はFerryへの私信になっていますが、実際には専務への私信でもあると思っています。
しかしそれにしても、詞の中で「ミカケテ ミツケテ…」の部分を除くと、メッセージはわずかに次の4行です。
「そう僕達はあらゆる全ての場所で繋がってるから」
「この言葉について考える君とだってもうすでに」
「ああ僕達がいつか永遠の眠りにつく頃までに」
「とっておきの言葉を果たしていくつ交わせるのだろう」
聴き手に人生観のいっぱい詰まったメッセージを送り届けるには余りに短すぎるというものです。結果として、斬新な音楽性にもかかわらず、詞が「私信」以上には昇華し切れていないというのがじょいじょいの実感です。
いや、むしろ、われわれはこの作品を、歌詞の意味の読みとれない海外作品に対してやるように、あくまで音楽として、耳で聴くことに徹するべきなのかもしれませんね。いつも海外作品に対してはそうやって接していて、しかも優れた作品を十分鑑賞できているわけですから。
実際、このアルバムの中でもこの作品は最も好きな曲のひとつです。初めて聴いたときから、良い意味で妙に耳にひっかかってくるのです。Ferryの卓越した作曲・編曲とayuの音域ぎりぎりのハイトーンボイスとがうまく相乗効果を出していると思います。詞は確かに重要ですが、詞の意味がなくても、音楽は十分我々を感動させてくれるという当たり前といえば当たり前のことを、この作品は実感させてくれます。
最後にひとつだけ、初めて聴いたとき抱いた期待が、その後の状況を見ると外れてしまった部分について触れておきます。
この作品を初めて聴いたとき、「WHATEVER」同様、これからたくさんのリミックス作品の「タネ」となっていくべき素材だと思われました。しかしなぜかその後、この作品のリミックスが作られたという話はとんと聞きません。これはどういうわけでしょうか? 何かFerryとの間に版権か著作権の取り決めがあるのでしょうか?
じょいじょいの勝手読みとしては、おそらく、優れた音楽性にもかかわらず、音楽的構成に少し単調なところがあり、味付けがしにくいため、rimixerから敬遠されているのではないでしょうか。そこがちょっと残念ではあります。
■「UNITE!」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
最初聴いたときには決して良いと思わなかったのに、後から評価を上げる作品というものがあるものです。じょいじょいにとってこの「UNITE!」はまさにそういう作品のひとつです。
シングルとして発売された当初から、じょいじょいにはどうしてもこの作品が我慢なりませんでした。誤解されないようにしたいのですが、わたしはこの作品の音楽性については始めから評価しているつもりです。
問題は、「自由を右手に 愛なら左手に」という手垢の染みついた常套句をサビの一番重要な部分に臆面もなく使うayuのayuらしくない無神経さ・創意工夫のなさと、プロモーションビデオやドームツアーで見せた、あのどうしても軍隊やナチスを想起させる迷彩服の一団が団結(UNITE)して拳を振り上げるシーンとにあります。
前者については、自分の言いたいことにできるだけ近い言葉をぎりぎりまで探し続ける姿勢こそがayuのayuたるところだと思うのですが、それをいとも簡単に放棄しているように見える、それがじょいじょいにはどうにも容認しがたいのです。
また後者については、これは十代の若い方々には実感がないかもしれませんが、ナチスを想起させるような服装や行為は、いま生きている多くの世代にとって、特別の意味合いを持つことにもっともっと自覚をもってほしいと思います。「過去のことは過去のことで、もういい加減に気持ちを切り替えて、未来に向かって踏み出そうよ」という意見は至極まっとうな意見ではありますが、戦後50年以上が過ぎても、拭い去ることのできないトラウマは、未だに全世界に厳然として存在しているのです。残念ですが。ayuのあのパフォーマンスが仮に反戦の意思表示として逆説的に軍隊的なイメージを取り上げているのだとしても、(私にはどうしてもそうは思えませんが)やはり人々の感情を考えれば、ああいうことを安易にやるべきではなかったと思います。
いや、たとえ上の世代の固定的なイメージがなかったとしても、あのパフォーマンスは、「私はロッカーでもありたいの。どう? ロックミュージシャンとしても一流とは思わない?」と露骨にアピールしている「いかにも」なものに見えて、あまりいい気持ちはしませんでした。じょいじょいが少々ひねくれてとらえすぎなのかもしれませんが。
そんなわけでじょいじょいにとって、「UNITE!」は最初から良い印象を持てない作品として存在するわけですが、今回、純粋に耳からのみ鑑賞してみて、この作品がCREAの作品にもかかわらず(ごめんなさい、これ、実感です)、思いのほか優れた音楽性を有していることに気がついた次第です。こうなってみると、なおさら、あの「自由を右手に 愛なら左手に」という安易なフレーズと迷彩服姿の印象が悔やまれてなりません。
最近のayuはどうもロックを自分のスタンダードナンバーにしたいという意識が強いようで、それが自分で作曲するに至ってようやく実現できる環境になってきたわけですが、 これらがなければ、この作品は一般の音楽通に対して、ayuのロックシンガーとしての新たな側面をもう少し強くアピールできたのではと思えるのです。
■「evolution」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
この作品もシングル発売当初からじょいじょいにとってあまり好きになれない作品です。そもそもこの作品が初めて世に出たのはカウントダウンライブにおいてですが、そのときの発声の曖昧さ、言葉を大切にしているとは思えない歌い方に対する反発が「刷り込み」されて現在に至っています。実際、あの場でこの歌が何を歌ったものか理解できた人はまず殆どいないのではないかと推測します。そういえば「wow yeah」を「前へ」と理解していて、後で歌詞カードを見て、初めて誤解に気づいたという人も多くいたように記憶しています。ayuは歌詞に英語を使わない主義なのにこの歌はそれを破っているといった反発の声もありましたね。「wow yeah」を英語ととるかすでに日本語と化した擬音語ととるかは、まあ微妙なところですが、本質的な議論ではないでしょう。ただ、このあまり意味のない擬音語がこの作品の至る所で繰り返されるのを聴いたとき、世間によくある通俗的なロックを想起したし、ayuはここで思考停止し、詞を紡ぎ出す作業から逃げているなと感じたものです。
詞についてもう少しコメントします。
この作品では、このかけがえのない地球、このかけがえのない生、このかけがえのない時代を「君」と共有できていることへの感謝と喜び、「生」の肯定、そしてその中でしっかり自分を持って強く生きることの大切さが語られています。しかし、ただそれだけではいかにも普通のメッセージに終始しています。そこに人がはっとするような人生観的味付けを加えるのがayuの詞の特徴だと思うのですが、どうもその味付けが欠けている。唯一、我々が生まれてくるときのいわゆる産声が、「なんだか嬉しくて」「なんだかせつなくて」泣きながら生まれてきたんだという発想が斬新ではありますが、これだけでは…というのがじょいじょいの正直な感想です。
これもじょいじょいの勝手読みですが、この作品を作った時期はちょうどayuが作詞に加えて作曲に手を出し始めた時期で、そういう音楽的実験の方に夢中になっていたことと、21世紀を迎えるという滅多に体験できないイベントの重なったカウントダウンライブに向けて、前向きの元気な曲をとにかく完成させたいとの気持ちが強かったことから、詞の方の錬成が若干手薄になってしまったのではないでしょうか。
誤解があるといけないので、付け加えておきますが、もしもライブを盛り上げる活きのいい曲を作るのが目的だとしたら、この作品は見事にその目的を達していると思います。その意味では申し分のない出来ですし、この手の作品がそれまでのayuには少ないですから、貴重な財産であることに間違いはありません。実際、 あの歌い方と詞の厚みのなさを度外視してこのアルバム収録を機会に改めて聴いてみると、「UNITE!」同様、音楽的にちょっと見直したというのが実感です。
ただ、ライブであの宇宙人のような、わざとつぶれたような声で歌われるのには個人的に大いに辟易しています……
■「Naturally」 (作曲:CREA 編曲:CMJK)
ayuがayuの「王道」を示した作品であり、このアルバムに収録された作品の中でも最も完成度の高い作品だと思います。余談ですが、この作品を初めて聴いたとき、わたしは『LOVEppears』所収の「And then」を思い出しました。そして、今のayuにもまだこのような作品が書けるんだという率直な驚きと喜びを覚えました。ayuはやっぱりayuなんだと。
音楽的には、最初聴いたとき、てっきりD・A・Iの作品だろうと思いました。ayuは非常に頭のいい人で、既存のもののエッセンスを吸収して自分のものにする力に優れていると思いますが、作曲の面でもその能力を存分に発揮しているようです。
詞のモチーフは「I am...」とだいたい同じで、やはり、創造者・探求者・アーティストとして孤独の中、がむしゃらに「生き急ぐ」日々の中でぶち当たるさまざまな矛盾、見え隠れする限界、先の見えない不安に揺れ動く心、そしてそんな矛盾と孤独を抱えたままのありのままの自分を強く生きていこうという決意、そしてそれを分からせてくれた「あなた」への感謝の気持ちを表白していますが、「I am...」よりはもっと深堀りされ、具体化されています。
このモチーフについて、この作品を初期の「Trust」あたりと比べてみるとなかなか興味深いものがあります。いずれも過去と現在の生きる不安が表現されており、それが「あなた」のおかげで新たな生の局面へと導かれたという内容になっています。しかし、初期の作品では、諦めたり卑下したり他人を傷つけるのが怖かったり周りばかり気にしていたりする弱い自分がいるのに対して、「Naturally」では目標に向かった戦いを続ける自分がいます。この3年ほどの間でayuの人生のステージは明らかに大きく前進しているのが見て取れます。しかしだからといって、矛盾や葛藤はなくなったかというとむしろ大きく深くなったかもしれません。その心の迷路に一条の光を導いてくれたのが、再び「あなた」だった−。
これはあくまでもじょいじょいの勝手な推測ですが、「Trust」のときの「あなた」と「Naturally」の「あなた」は、≪あの≫同一人物だと思います。決して最近話題の恋人ではないでしょう。
まあ、それはさておき、このアルバムの中にどうしても「ayu節」は欠くべからざるものであり、「Naturally」はそれを忠実に表現したものになっています。あまりにayuらしいところが鼻につく人もいるかもしれませんが。
■「NEVER EVER」 (作曲:CREA 編曲:CHOKKAKU)
ayuが自ら作曲を手がけ始めるようになってから、最も抵抗感の少なかったのがこの「NEVER EVER」です。この作品についてはシングルとして発売時に、このピリ辛いためで取り上げています。(2001年3月20日参照)
ノスタルジックな前奏から続く静かな導入部が全体の基軸を提示し、その後の比較的激しい主題部との対比が印象的な、ayuの持ち歌には珍しい3連符の作品です。
「もしもたったひとつだけ…」で始まる主題部が、いきなりクライマックスになっている構成に唐突な感じを受ける人もいるかもしれません。静かな導入部との間にもうひとつ何かサンドイッチとなるものがほしい気は確かにします。詞と曲の両面に、その「あともう少しの何か」が加わっていれば、この作品はもっと広い層に受け入れられるスタンダードナンバーになっていたかもしれませんね。
それを詞の面からとらえると、言説が十分に尽くし切れていないため、聴者の心に共鳴するまでに至っていない可能性があります。じょいじょいの理解する限り、この作品の主題は、
自分は「不変なもの」をずっと探し続けてきた。そしてようやく「君」の私への不変の愛を獲得したと思ったのに、それも失ってしまった。「君」の愛がなければ、自分は生きている意味がない。私の「君」への愛はいまも不変だよ。だから、もしもたったひとつだけ願いが叶うとしたら、私は、「君」の私への変わらぬ愛をもう一度くださいとお願いする。いま私から「君」へ「不変なもの」を差し出すことができる。それは「君」への変わらぬ愛。だから「君」の愛がほしい−。
ということだと思います。(ちなみにここでの「君」も、ayuの初期作品から絶望3部作を通って現在に至るまでの「君」や「あなた」と同一人物だとじょいじょいは確信しています。一度だけこのあたりの事を「ピリ辛」に書いたことがありますが、根拠の希薄な憶測に過ぎなかったのですぐに抹消しました。しかし、最近出版された『浜崎共和国』のayuのコメントを読んで、じょいじょいの理解が間違っていなかったことを確信しました)
このような作品の主題を、その背景とともに理解してようやくこの作品に共鳴できるのかもしれませんね。もしそうだとしたらやはりもう少し抽象度を落とし、適切な言葉で主題を補足した方がよかったのではと思うのです。
とはいえ、最初に言ったように、じょいじょいはCREAの作品の中では比較的好印象を持って受け入れている作品です。音楽的にも詞的にも特段の新奇性はないかもしれませんが、かわりに全体がバランスよくまとまっており、安心して聴くことのできるナンバーだと思います。ここでも歌い方と歌声への不満を除けばという但し書き付きですが。
■「still alone」 (作曲:CREA 編曲:CMJK)
「Naturally」と同じ背景を担った作品です。しかし「Naturally」では「あなた」との別れは明示的には描かれておらず、まず孤独ありきで、その孤独の中でクリエーターとして格闘する中でぶつかった壁、それを乗り越える力を「あなた」の言葉によって得ることができた、「あたし」はこれからもありのままの自分をさらけ出して孤独のなか前進していこうと決意が語られるのに対して、この「still alone」では、「君」と別れてから、「私」も同じ孤独な戦士として生きるようになって初めて、クリエーターとしての「君」のことが理解できるようになった、同じ道を共に歩いていくはずだったのにどうして「私」は「君」と別れてしまったのだろうと、あくまで「君」への後悔の念を表すことに終始しています。
どちらかというと、「Naturally」では強いayuが、この「still alone」では弱いayuが語られているといえるでしょう。
音楽面でこの作品を見てみると、もう少し編曲がどうにかならなかったかなと感じます。CREAの作品自体が若干平板なところがあるので、そこを編曲でカバーしているというのがCREA名義の作品の実情ではないかと思います。しかし、この作品については、何というか、全体にべたべたとした平板な音づくりに終始していて、曲の平板さを助長しているところがあると思うのです。(編曲のこの「べたべた」さや音の汚さは実はこのアルバム全体を通して感じる欠点なのですが)
それは特に「その夢守って行くためには 私がいちゃいけなかった」以降のサビの部分で特に顕著に感じます。詞がなかなか良いと思うので、そこが残念で仕方ありません。
それにしても、最後の「約束は覚えているの 忘れた日はないの」というフレーズはとても意味深ですね。どんな約束なのでしょう? 二人だけが知っている共通の暗号なのでしょうか?
聴き手それぞれに自分なりの「約束」を思い描いてもらおうとする技巧としての「抽象表現」ではなく、ayuと「君」にしか分からない具体的な「約束」(つまり私信)をこっそり(でもないか)詞の中に潜り込ませたayu特有の仕掛け(遊び心)ではないかなと何となく思えるのです。いや、根拠はありません。
■「Daybreak」 (作曲:CREA + D・A・I + junichi matsuda 編曲:tasuku)
この作品は3人の合作という珍しい形態をとっていますが、それぞれの作曲家の持ち味をうまく生かしたものに仕上がっていると思います。(といっても松田純一さんの持ち味はまだよく把握できていませんが)
ayuには珍しい明るくポジティブなバラード曲で、このアルバムの中でも特に好きな作品のひとつです。
内容的には、ある共通の目標に向けて歩んでいた「君」と「僕」がいまは遠く離れているけれど、心はいつもそばにいるつもりだよ、だからこれからも、あの見果てぬ夢目指して二人して歩いていこうという主旨であり、これは「Still alone」の背景とほぼ同じ構図だと思われます。ただ両者が決定的に違うのは、「Still alone」が離ればなれになっていることをネガティブにとらえ後悔の念が支配しているのに対して、この「Daybreak」では別離を前向きに受け止め、昔、ともに見つめた目標に向かって再出発しようとしているところです。
そして、こう考えると、「Still alone」の最後の「約束は覚えているの 忘れた日はないの」という一節と、「Daybreak」の最後の「いつかあの日夢見た場所へと 旅してる同志だって事を 忘れないで」とが実は同じことを言っているのではないか、そしてそれは音楽の世界において永遠に残る作品を作り上げるという目標なのではないかという仮説を立てることもできます。まあ単なる一仮説ではありますが。
作詞の技術の面から見ると、この作品でも、ayuらしい思索性・思想性のあるフレーズがそこかしこに散りばめられ、抜群の冴えを見せています。具体的には
きっと光と影なんて
同じようなもので
少し目を閉じればほらね
おのずと見えるさ
とか
全ては偶然なんかじゃなく
全ては必然なコトばかり
かも知れない
などは涙もののフレーズですね。(最後に「かも知れない」を付け加えたところも憎い限りです)
ところでこの作品は、アルバムに収録されたあとに、リカット・シングルとして発売されましたが、そのときにMixを大幅に変えていますね。シングル版の方は、より憂いを込めたアレンジになっていますが、確かにこのアルバムバージョンの欠点は、徹底的にポジティブだという点かもしれません。実際、初めてアルバムでこの曲を聴いたとき、味付けとしてもう少しマイナーな部分もあった方が、全体が引き締まるのになあと感じたものです。しかし、シングルバージョンの「Daybreak」は逆に「憂い」が過剰になっており、じょいじょいの個人的な好みからすると、このアルバムバージョンの壮大な感じの方が好きです。
より微妙な匙(さじ)加減の効いたリミックス曲の出現をぜひとも待ちたいという気持ちが大です。
■「M」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
この作品もそうなのですが、ayuの作曲する最近の作品は、総じて、発表当初よりも、後になってから、その音楽的な価値を理解できるようになるものが多いように思われます。これはどうしてなのでしょう?
きわめて好意的に解釈すれば、ayuの音楽的な先進性に我々がすぐにはついていけていないともいえるかもしれませんが、じょいじょいはそこまで肯定的にとらえることはできていません。ayuの音づくりが世間的な音づくりの「常識」から若干はずれたところでなされており、既存の音楽に慣らされた者にはそれがどうも拭いがたい違和感として立ちはだかるように思えます。そしてその違和感が何度も聞いているうちに慣れてきて、だんだん薄まっていくのだと思います。しかし慣れることによって違和感を感じなくなるということと、その作品が既成概念を打破する新時代の音楽だということとは全く別次元の話です。
真に時代を変える音楽は、やはり既成概念を打ち破るものを持っていますが、同時にそれはそれを初めて聴いた者に即座に「あっ!」と思わせるだけの圧倒的な説得力、まさに「目から鱗」を落とす力を持っているものです。自分の「常識」が実は作られた「常識」であることを直感的に気づかせ衝撃を与えてくれるものこそ、一時代を築く音楽といえるでしょう。その点からすると、ayuの作曲する作品の「違和感」は、どうしても「違和感」という所にとどまっているように感じられるのです。
ただ、私は何という意地悪をしているのでしょう?
この1年や2年の間に作曲を手がけるようになった者の作品を、一時代を築いた数少ない偉大な作品を引き合いに出して論ずるのは余りにも酷というものです。「ayuが作曲? そんな甘いもんじゃないよ」と言っていたことを考えれば、ayuは思いの外よくやっていると思います。何よりも感心するのは、既成の概念にとらわれずそれを乗り越えていこうというayuの明確な意志がそこに感じられることです。ayuは無知で「違和感」を残しているのではなく、意識的に「違和感」を作っていると思います。ただ先程も言ったように、それがもう一皮むけていないのが現在の状態だと思うのです。
ちょっと総論ぽくなってきたので、ここで話を「M」に戻しましょう。
この作品は作曲、作詞とも、ayuが自ら手がけた最初の作品になります。この作品については、発表された直後の2000年12月13日付けの「本日のひとりごと」の中で次のように書きました。
「 入荷日にayuのCDを買わなかったのは久しぶりのような気がする。今日も買うかどうかわからない。理由は簡単だ。テレビで聴いた「M」が残念ながら作品として水準に達していないと感じたからだ。特に楽曲の完成度が全般に低いのと、いつものような詞と曲の絶妙のおさまりの良さが今回に限っては欠けているように思える」
この発言を巡って、「水準」とは何か、そんな絶対的なものは存在するのかといった議論が巻き起こった記憶があります。しかしこの思いは基本的に今も変わりなく持っています。この作品の音楽的常道を無視した座りの悪さは、旧習を破壊する革命者としての逸脱にまでは達してなく、ただ音楽的な常識を知らないが故のものだと。そしてその思いは、雑誌「Rockin' on Japan」誌上でのayu自身の発言「またなんかいきなりこう、素人ちっくなというか、自分には凄くそういう風に聞こえるんだよね。なんかこう……自信は全くなかった。(中略)歌入れ終わって聴くと、『はぁ〜』って。『大丈夫かな?』ってもうしつこいくらい聴いてた」「あの作品はそんなに売れる感じじゃなかったと今も思ってる。(中略)あんなに売れちゃいけないと思ってた」(2001年4月号72〜73ページ)という発言によって、裏打ちされたと思っています。
ただ不思議なもので、さんざん聞き慣れてみると、これもありかなと思えてくるものです。もう少しアレンジをうまくやれば、逆に斬新な作品として輝きを保つものになるかもしれないと。
そうは言っても、どうしても納得できないところはあります。それはやはりあの歌い方です。そもそもこの詞とこの曲想であれば、あんなに演歌っぽく、小節まがいの飾り付けをして悲痛な歌い方をする必要など全くないと思うのですが、ayuはなぜかあの歌い方を全く変えようとしませんね。いつも結構まともな意見を言ってくれる我が家族たちもそろって「ayuはいつから演歌歌手になったの」と批判的です。(この批判はCREA名義作品ほとんどすべてに共通しています)
わたしなどは、PVであのマリアのコスチュームをまとうくらいなら、歌い方も聖歌を歌うときのような、たとえばENYAのような歌い方の方がずっとこの曲とayuの魅力を引き立てることができると思うのですが。どんなものでしょう。
■「A Song is born」 (作曲:小室哲哉 編曲:小室哲哉)
先に発売されたKEIKOとの同名の(厳密には大文字小文字の違いあり)共演作が耳にあまり快くなかったので、何でこの作品をという思いが最初はありました。しかし一度聴いてみたら、逆にayuが何故このアルバムにこの作品を入れたかがよくわかるとともに、アルバム収録曲の中でも3つの指に入るくらいお気に入りの作品となりました。
やはり共演ということで遠慮があったのでしょうか。編曲の小室さんに対しても共演のKEIKOさんに対しても。きっと音入れ直後からどうしても納得できなくて、今回のアルバムでの全面取り直しとなったのだと思います。
この作品は著名アーティストがよくやる反戦キャンペーン曲のひとつです。じょいじょいはこの手のパフォーマンスはどうも偽善というか、単純な善悪論に終始する傾向が強いため毛嫌いしてきました。しかし今回ayuの詞に触れて、「ああ、やはりayuは違うな」と改めて感心した次第です。普通は単純に「戦争やめよう」「人類みな兄弟」的な乗りになってしまいがちですが、ayuは決してそんな真実から遠ざかり思考停止に陥るような詞を書こうとはしません。反戦も好戦も、それが自らの熟慮の中から出てきたのでなければ結局同じことなのです。立ち止まって自ら考えることがすべての出発点になることをわかってもらうこと。それがayuの良心なわけです。
この作品は、歌唱法の点でもayuのこれから進むべき道を暗示しているように思えます。すべてを柔らかく包み込む「聖母マリア」を彷彿とさせるような歌声。これは最近のayuのメジャーな歌い方とは対極にある歌い方ですが、じょいじょいにはとても心地よくきこえます。ayuが望むかどうかはわかりませんが、ayuが今後長くアーティストとして生き残っていくとしたら、きっとこういう「癒し系」の音楽のつむぎ手としてなのではないかと思うのです。
■「Dearest」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki)
「Dearest」は間違いなくayuの代表作のひとつです。それを否定する人はほとんどいないでしょう。昨年末の賞総なめの際もayuはほとんどすべてこの作品で勝負していましたから、普段ayuの歌に接することのない人たちの耳にも何度となくこの曲が流れていったに違いありません。
じょいじょいも当然の事ながら、この作品を最初に聴いたとき「SEASONS」に匹敵する代表曲になるだろうと予想しましたが、同時に売れれば売れるほど、曲想が若干単調なところが人々を飽きさせるのではという懸念も持ちました。そしてその懸念は現実のものになったように思います。そしてayuが技巧の限りを尽くして一生懸命歌い上げれば歌い上げるほど、お腹いっぱいの目の前にデコレーションケーキを丸ごと出されたときのような嬉しいけど鼻につく状態を味わわされることになるのです。
「もしもXXだったら」という仮定の話をしてもあまり意味はありませんが、もしもこの作品がCREAとD・A・Iの合作でなく、D・A・I単独の作だったとしたら、もしかしたら本当に「SEASONS」に匹敵する作品に仕上がっていたのではないかという根拠のない思いもじょいじょいにはあります。逆の言い方をすれば、曲作りにD・A・Iが参加したからこそここまでの名声を獲得できたともいえますが。これって意地悪ですかね。でも本当にこれはじょいじょいの実感です。この「Dearest」に限らず、CREAの作品の弱点はまさにそこにあるからです。
さて、詞の内容にも触れたいのですが、この作品が出た時期が時期だったので、世間ではこの詞の「お相手」は公私とも公認のあの若き恋人に違いないと考えられたに違いありません。しかしじょいじょいにはやはりここでも「お相手」はあの例の人に違いないと思いましたし、今ではそれが確信に変わっています。
しかし音楽鑑賞するのにその言葉の字義を通り越して、その裏側にある創作の舞台裏に踏み込むのは、なんだか間違っているような気もします。そうなのですが、ファンとしては単にその作品というにとどまらず、アーティストそのものにこそ興味があるものなので、必然的にそういう話に行ってしまいがちで、それも仕方がないかなと思っています。
詞の内容としては、いかにも万人受けしそうな、危機と困難を乗り越えた恋の成就の物語ですが、ayuらしい捻りに欠けているところが先程の「単調さ」という現象として現れてくるのだと思います。しかし、世のスタンダードナンバーというものは概してそういうものだし、スタンダードナンバーが必ずしも「マイベスト」にはならないというのも世の常です。
あと、ayuがこの歌を好んで歌うのは、ayuにとって非常に歌いやすい曲だということが大きいのだと思います。「Boys&Girls」や「Fly high」などといった曲では思いのほか音程をはずしたり、声が出なかったりするのに比べ、この曲は非常に安定した状態で歌い込むことができています。このギャップがあまりにも激しく、じょいじょいには不思議で仕方がありませんが、これは「SEASONS」にも言えることです。いわゆる「ayu節」でない作品に限って、ayuが最も評価されるというこの事実。別の言い方をすると、ayuが歌いたい歌を歌うことが必ずしも世間が欲していることと同じ方向ではないという事実。この事実にどう正面から向き合うかが、ayuの今後を占う上で重要な意味を持つものと思われます。それでもayuは自分の歌いたいものを歌うことに固執し続けるのか?
■「no more words」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki + tasuku)
ayuの作品は大きく、自分と「あなた」との1対1の内面的関わりを題材にしたものと、目を聴き手(みんな)や社会というものに向けて発せられたものとに分けることができます。後者は社会的影響力とその中での自分の役割というものを自覚し始めた「AUDIENCE」以降に見られるようになった新たなステージの産物といえます。「AUDIENCE」、「Duty」、「evolution」、「A Song is born」などがこの分類に入りますが、この「no more words」もやはりこの範疇に分類される作品です。直接的にはあの「世界同時多発テロ」に触発された「A song is born」で語りきれなかった部分から派生して生まれたものと考えていいと思います。そしてきわめて冷静に哲学的に人生観を語るこの作品はある意味、ayuの作品の中では異色の部類に属するといえるかもしれません。その後のツアーでの取り上げ方を見る限り、ayu自身もこの作品の出来映えには自信を持っているように見えます。
ただ個人的感想を述べさせていただくと、前半からサビに向かうところまでは文句なしの出来なのに対し、肝心のサビの部分、「敗者でいい いつだって敗者でいたいんだ」の一節には、残念ながらCREA作に共通な据わりの悪さが現れていると感じます。詞そのものについても、言いたいことはよくわかるけれども、ここで勝者と敗者の二元論を持ち出すのは誤解のもとです。また、最後の「今はこれ以上話すのはやめとくよ 言葉はそうあまりにも 時に無力だから」
というフレーズが、いかにも取って付けたようで、作品の収束のさせ方を模索する努力を途中で放棄したような印象を受け、残念でなりません。
じょいじょいの中では、「名曲になり損ねた名曲」という感じです。
■「Endless sorrow 〜gone with the wind ver.〜」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki + tasuku)
この作品はシングルとして発売当初、好きになれませんでした。この作品に底なしの暗さを感じたのと、主題歌としてタイアップしたドラマ「昔の男」のあまりの陰湿さ、そしてayuの相変わらずの悲痛な歌い方がそれをさらに助長していたためです。
その後、ドラマが終了し、そのマイナスイメージが記憶から消えて行くにつれ、この作品の持つ「美しさ」が少しずつ自覚されるようになりました。そしてそうこうするうちにこのアルバムが発表されたわけです。
ayuはこの作品をアルバムに収録するに当たって、編曲のみならず、詞と曲の両方に手を入れています。アルバム初収録の際にここまで手を入れるのは異例のことと考えていいでしょう。それだけayuはこの作品に不満を持っていたことになります。実際、いろいろな場所でayuは、この作品を作った時期が精神的にどん底にあるときだったため、ひどく厭世的になっていることを後悔する発言をしています。
ayuは詞と曲にざっくり手を入れ、絶望の果てに微かな希望の光がほの見えるようなストーリーに仕立て直しています。ここにayuの成長の跡が現れていると思います。それまでは、落ち込んでいるときは徹底的に暗い作品を、ハイなときには徹底的にポジティブな作品をというように、ころころ変わる個人的な気分をそのまま反映させた作品づくりをしていました。それがayuの作品づくりのコンセプトですらありました。しかし最近は、作品を受け止める聴き手の受け止め方や社会的影響なども考慮した作品づくりを心がけるようになってきています。
手を入れた後の詞と曲は出来映えは上々だと思います。編曲はayuの意を汲みすぎて、過剰に明るい感じで仕上げてあり、これがこのアルバムバージョンの評価を二分するでしょう。かたや「絶望の中の希望をうまく表現できておりオリジナルにさらに厚みを加えている」、かたや「妙に明るくてオリジナルのせっかくの雰囲気をぶち壊している」と。どちらも頷ける評価だと思います。じょいじょい個人は、確かに明るい方向にちょっと振れすぎている嫌いはあるとはいえ、このアルバムバージョンの方がオリジナルより好きです。今後、この新バージョンに対して、より的確にayuの意図を汲んだ新たなミックス作品が登場することを期待します。
なお、この作品ではayuの声が他の作品よりも澄んで聞こえます。これは、他の作品の音入れがツアー明けでまだ喉が荒れていたときのもので、この作品の音入れがアルバム作成の最後、喉の状態が普段に戻ってきたときになされたものだからだと予想します。そしてそれもこのアルバムバージョンを聴きやすいものにしている要因のひとつだと思います。
さきほど「A Song is born」のときに論じたayuの歌唱スタイルの今後のあるべき姿がまさにここに示されているとじょいじょいは確信します。
■「flower garden」 [シークレットトラック] (作曲:不明 編曲:不明)
正式なリリースではないので、コメントは差し控えさせていただきます。
3.最後に
『I am...』は、ayuがCREA名義で作曲を手がけるようになって初めてのアルバムです。そしてこのアルバム収録曲14曲中、実に12曲までがCREA(+α)作曲となっています。その意味でこのアルバムはayuの新たな展開を示す記念碑的な作品となっています。
ここで再び2000年元旦の新年会でのayuの発言とそれに対するじょいじょいの当時のコメントを再掲しましょう。
さて、このアルバムで、上の目標「幅広い層から支持され300万枚売り上げる」はどの程度まで達成されているでしょうか?
いま改めて聴き直してみて、詞・曲ともなかなか充実していると思います。それはこれまで見てきた通りです。ayuは創作技術の面で着実に成長していると言えるでしょう。
しかし、作品そのものの高質性と、それが一般大衆に受け入れられることとは必ずしも一致するわけではありません。ちょっと残念ではありますが。
そういえば宇多田ヒカルの最新アルバムの売り上げが発売3週間にして300万枚を突破したとのニュースが入ってきました。宇多田ヒカルが「幅広い層から支持され」ていることは疑いようのない事実でしょう。それに比べて、ayuの方は依然、10代には圧倒的な支持を受けているにもかかわらず、それ以上の世代にはなかなか食い込めていないというのが実情のようです。
詞の内容、曲の完成度は十分のように思われますし、むしろ玄人受けする内容ですらあります。では宇多田ヒカルにあってayuに無いものは何なのでしょう?
これはあくまでじょいじょいの私見でしかありませんが、大衆に受け入れられるための重要成功要因は、実は作品の技術性よりも、曲想、歌声と歌唱法、人間性やアーティストとしての姿勢にあるのではないでしょうか?(もちろん詞の内容は最重要ですが)
そして時代は「癒し」や「快さ」を求めている。また、音楽に真正面から(脇目をふらず)立ち向かう専門家としての真摯な姿勢や人間的なノーマルさ・安定度を求めている。
話がまた飛んでしまいますが、最近、中森明菜が再デビューしました。芸能生活20周年だそうです。じょいじょいも同時代を生きてきたので彼女のことはよく知っているつもりです。そしていま彼女を目の当たりにして、ayuに妙に二重写しして見えるのはじょいじょいだけでしょうか? 彼女も一時期一世を風靡したアーティストです。まさに尖ったところ、「私」というものを全面に押し出したアーティストでしたが、次第に時代から必要とされなくなっていった経緯があります。そしていま、やはり時代はそういう音楽を欲してはいないのではと思われます。(中森明菜さんを引き合いに出して、ご本人およびファンの皆さんには申し訳なく思いますが、この辺りが本当に重要なキーになっていると思われるため、敢えて言及しています)
ただ、ここで注意しておきたいのは「時代」とか「大衆」と呼んでいるものの実体はあくまで最大多数の聴き手という意味に過ぎないということです。最大多数派に受け入れられるのがすべてではないこと、悩みや壁にぶち当たっている少数派のための音楽が実は最も切実に望まれているとさえいえることを忘れてはならないと思うのです。
いずれにしても、すごく感覚的な話になりますが、ayuが「幅広い層から支持され」るようになるとすれば、それは、アルバムタイトルを『I am...』ではなく、『We are...』、『Duty』ではなく『Pleasure』と名付けることが出来る心境になったときではないかと漠然と思うじょいじょいです。
相変わらず辛口のコメントが多くなってしまいました。これはここが「ピリ辛炒め」だからというわけではありません。無理矢理重箱の隅を突ついたわけでもありません。じょいじょいが本当にそう感じるところをあるがままに書いたつもりです。そこだけは誤解しないでくださいね。
今回も長い長い文章に最後までつき合ってくれてありがとう。
この文章がayuを通して皆さんの生き方や進むべき道を考察するための触媒になれば幸いです。
その前に、これまでリリースされたオリジナルアルバムについてごく簡単な総括をしておきましょう。
1stアルバム『A Song for XX』は、専務が全力を傾けて売り出しただけあって、楽曲にも恵まれ、デビューして半年やそこらの新人が出すファーストアルバムとしては異例の質の高さ、充実ぶりを示していると思います。
もちろん、まだアーティストとしてのayuのスタンス、方向性が定まっていない時期に出されたため、どうしても玉石混淆の感は否めません。プロデューサーとしても一応、十代の新人ソロ歌手の通例にしたがい、アイドルPOP歌謡的な部分を完全に排除するだけの勇気と自信はまだなかったに違いありませんし、また楽曲の提供者たちも、ayuの特質を捉えたうえでの楽曲提供というところまでには至っていなかったため、やはり少なからずアイドルPOP歌謡的な楽曲提供を意識していたように思われます。
にもかかわらず、そこに収録された多くの作品は確かに4thアルバムが出た現在にあっても依然、珠玉の光を放っており、そのいくつかは間違いなくayuの代表作となっています。
ayuの紡ぎ出す独特の詞の世界は、決して若いアイドル歌手が話題づくりのために「ちょっとチャレンジしてみました」的に作詞を手がけたものと同列に扱うことのできない質の高さとオリジナリティに溢れています。まさに専務が感嘆したように「この娘はどういう10代を送ってきたんだろう」と思わせるものになっています。
そしてそれに、菊池一仁を始めとするいままさに花開こうとしている新進気鋭の作曲家陣・アレンジャー陣のエネルギーと天才とがあいまって、フレッシュな感動と驚きを私たちにもたらしてくれています。
何よりも、それまで言いたいことをうまく周囲とコミュニケートできなくて、心の中に長年の間、積もり積もって悲鳴を上げていたさまざまな思い、その思いを表白し解放する術を「歌」というものに見い出すことのできた喜び、そしてそれを可能にした「心の肉親」(専務とnatsukiさんのことですね)との出会いの喜びが、このアルバムを求心力のあるものにしているといえます。
次に2ndアルバム『LOVEppears』ですが、これはayuが「アーティスト」としての自分の居場所をある程度見定めることができ、ようやくうち解け信頼を寄せることのできるようになったスタッフに囲まれた中で完成された作品であり、後世に、ayuの「第1期黄金時代」を象徴する作品と称せられるだろうと思われる円熟した作品に仕上がっています。個人的にはいまのところayuのアルバムの中で最も評価する作品です。
特筆すべきは、作曲家D・A・Iとの出会いです。これが、内省的なayuのパフォーマンスに振幅と深みをもたらす結果となっています。
3rdアルバム『Duty』についてはすでにこの「ピリ辛いため」で論じました。
アーティストとしての人気と評価を獲得し、どちらかというと苦手と感じていたライブも見事に成功させた直後の作品として、このアルバムには、余裕とそこから来る実験的試みが随所に見られます。しかしその実験が少なくともじょいじょいにとっては、間違った方向での実験に感じられ、前回の3rdアルバム『Duty』のとき、私は「純粋に曲(+編曲)と詞の2点から評価すれば、非常に高得点を与えることができる」が「それだけに、歌い方と声の状態が残念で仕方ありません。ayuとしては曲に合わせて歌い方を臨機応変に変えているつもりなのでしょうが、結果的には失敗している」と論じました。そしてこの思いは今でも変わりありません。ごく簡単に総括すると、どの作品も素材(詞、曲)としては非常に芸術性の高いものを持っているにもかかわらず、ツアー終了からの制作期間があまりにも短すぎたために、シンガー(歌う楽器)としてのayuの仕上がり(回復)具合も含めて、熟成と味付けの調整が足りなかったということです。
さて、そしてこの4thアルバムです。
(なお、詞を参照したい場合は、適宜、JASRACの承認を受けた「恋人達の指輪」もしくは「ayumi-hamasaki.com」をご覧下さい)
1.構成について
このアルバムが出た当初、当サイトの談話室でも、ジャケットの意味とタイトルの構成の相関性について、さまざまな議論がなされたのを記憶しています。しかし結局私はそこに確とした意味づけを読みとることができませんでした。
ジャケットが夜明けから夕暮れまでの砂漠の一日を時系列的に描いていること、鳩が平和のシンボルであり、おそらくあのアメリカの衝撃的な同時多発テロに触発されたものであろうことは当然読みとれますが、それ以上のことをあれこれ詮索してみても、深読みのしすぎにしかならないように思えます。たとえばayuと鳩がともにいるページと鳩がいなくなったページとayuも鳩もいなくなったページにそれぞれ特別な意味があり、それがその各ページに掲載されたタイトルの説明になっているというような説です。
では、このアルバムに収録されたタイトルの順番に意味はないのでしょうか。これについてもいろいろな議論が繰り広げられた記憶がありますが、私の読みはきわめて単純です。
このアルバムは大きく3つの部分からなっています。
そしてその3つの部分が2つのInstrumental作品で区切られています。
最初のブロックは「I am...」の1曲です。これはアルバムタイトルになっていることからもわかるように、アルバムの自己紹介、序章にあたるものです。
次のブロックは、「Connected」〜「Daybreak」までで、ロック調、電子楽器系、どちらかというと「動」の作品を集めています。
そして最後のブロックは、「M」〜「Endless sorrow」までで、どちらかというとバラード調、アコースティック系、「静」の作品を集めています。
この構成が成功だったかどうかはちょっと疑問です。初めてayuの作品に接する人にとって、最初の数曲の印象は大事だと思うのですが、この構成では、ayuというアーティストの性格に偏ったフィルターが掛けられてしまう可能性があると思うからです。つまり、いきがってRockっぽく振る舞おうとしているけど全然なりきれていないJ-POPシンガーだというように。また似たような曲が続くことになるので、飽きられやすい、あるいは2曲目以降のインパクトが弱くなるという問題があります。
同種の曲をまとめるよりむしろ適当に散りばめた方がよかったと思います。
2. 各作品の評価
■「I am ...」 (作曲:CREA 編曲:Tadashi Kikuchi + tasuku)
とにかく「痛い」。この尖った痛さを聴き手に思いっきりぶつけることがこの作品の目的だとすれば、この作品は十分にその目的を達成していると思います。 ただそれを素直に受け入れられる人と、その過剰な自我の表白にちょっと引いてしまう人とに受け手がはっきり分かれるに違いありません。
この作品には、ayuの最近の作品にしばしば出てくるモチーフがやはりいくつも現れてきます。ひとつはファンや周りの人々にちゃんと「伝わ」っていない、本当の自分を解ってもらえていないという嘆き。そして、「生き急ぐ」ことから逃れられず、またそれを良しとする「滑稽」ですらある創造者としての自分、「矛盾だらけの」自分。そしてかつて「永遠」という言葉で表現しようとしたものとどこまで同じかはわからないけれども「たったひとつの言葉」を探し求める求道者としての自己の再表明。
ayuの抱える根深いトラウマについては、また別の機会に論じようと思いますが、自分の本質、本意を周囲や肉親や分かってほしい人たちにわかってもらえていないし、わかってもらえるように行動できない焦燥感とそんな自分への侮蔑、周囲との深い溝を、ayuはおそらく小さい頃からずっと抱えていて、アイドルタレントや女優になりそしていまこうやってアーティストとして活動を続けるのも、ひとつにはそういうアリ地獄から何とかして逃れたいという(無意識の)目的が根底にあるように思います。
これらの悲痛な叫びを痛々しくも共感を持って受け止めことのできる人は幸せです。そういう人たちはきっと、今を生きるayuを心底から好きなのでしょう。一方、昔からのファンの中には、熱烈なファンでありながら、いや熱烈なファンだったからこそ、「あたし、あたし、あたし、…」という自意識過剰な押し付けがましさに閉口したり、「どうか解って そんな事を言っているんじゃないの / どうか気付いて こんな物が欲しいわけじゃないの」と言う割には、自ら好んで誤解されるような行動ばかり取ってきたじゃないかと感じられる人もいるのでは?
ただ、それでも感心させられるのは、解ってもらえないとか生き急ぐだとか矛盾だらけだとかの自己表明、自己憐憫、あるいは聴き手によっては自己弁護だけにとどまることなく、最後にしっかり「私はずっとたったひとつの言葉を探してる」というayuのアーティストとしての存在理由を宣言するのを忘れないところです。この言葉が単なる流行歌手ではないayuの思索性・哲学性を浮き彫りにし、このアルバムのプロローグとしてのこの作品の価値を明確なものにしているといって過言ではないかもしれません。
そしてまた、これは本質的ではありませんが、この最後のフレーズをあたかもサイボーグかロボットのようなデフォルメされた声でとつとつと歌い上げたところがいかにもayuらしい技巧で、思わずあのTUKAのサイボーグayuのCMを思い出してしまったのは私だけではないでしょう。
■「Connected」 (作曲:Ferry Corsten 編曲:Ferry Corsten)
この作品を初めて聴いたとき、真っ先に「WHATEVER」を思い出しました。オリジナル曲自体がすでにリミックスの様相を呈していることがそうさせたのだと思いますが、それと同時に、残念ながら、曲の斬新さに比べて、詞の方が他の作品に比べると、いまひとつ掘り下げ方が足りないところも共通していると思います。
ただこの作品の出来上がった経緯を考えればそれも仕方がないことかも知れません。 この作品は作曲者のFerry Corsten(彼は世界的に有名なRemixerでもあります)がまず曲を完成させ、ayuにぜひともこの曲に詞を付けてほしいと依頼してきて、ayuがそれを快く受諾したという経緯から出来上がったものです。
その際にayuは、外国人のFerry Corstenが日本語の意味を理解できなくても分かり合えるような詞を目指しました。その結果、詞の意味よりもむしろ語感を重視し、韻を多用したあの「ミカケテ ミツケテ ミサダメテイル …」というフレーズが誕生したわけです。
しかもいかにも常識にとらわれないayuらしいといえるのですが、この詞は依頼者Ferryへの私信の役割をも果たしています。「自分たちは別々の言語を使っているけれど、それでもこうやって言葉というものを通してお互いの気持ちを伝え合い、解り合うことができるんだね−」と。そしてこれはFerryだけでなく、私たちみんなへの問いかけにもなっています。「私たちを結びつけている言葉というものを深く考えれば考えるほど増してくる、その重みと不可思議さ。みんなもちょっと考えて見ようよ」と。
これは優れて哲学的なテーマですね。そしてこの難しいテーマを何のためらいもなく作品の中心にすえてしまうのもいかにもayuらしい。そう、このアルバムのひとつの特徴は、このような抽象的なテーマやメッセージ性の強いテーマについても臆せずファンの前に提示する決断が出来るようになった点にあるといえるでしょう。この傾向は前作の「Duty」で既に芽ばえていますが、ここへきて完全に一歩踏み出したわけです。
ayuは元来、そういう抽象的な問題をあれこれ思索することを好むようです。
例えば、2000年元旦のラジオ番組での新年会で次のように発言しています。ayuのいわゆる「永遠」論のくだりです。(実際には各発言の間に、他の出演者の発言が入ります。
「だから、記憶の中なわけよ、永遠っていうのは」
「だから、記憶がない人間には、永遠はないわけよ。記憶を持ってるから、その過去があるからこそ永遠があるわけで、過去を捨てた人間には永遠っていう言葉はないわけよ」
「でしょ、そこに気付いて…。 みんなはね、永遠っていうのは未来の所有物だと思ってるわけよ」
「違うんだよ。そんなことをね、毎日家で一人で考えてるんだから。暗いでしょ?(笑)」
いろいろな情報ソースから推測するに、ayuと専務は折につけ、音楽論や人生論などについて議論を戦わせてきた形跡があります。ふたりはそういう人生の深いところで互いを理解し合う間柄として今日に至っています。その間、いろいろな理由で疎遠になったり、実際物理的に遠ざかったり、そしてまた互いを求め合い、接近したりということを繰り返してきたと思われます。
この作品はFerryへの私信になっていますが、実際には専務への私信でもあると思っています。
しかしそれにしても、詞の中で「ミカケテ ミツケテ…」の部分を除くと、メッセージはわずかに次の4行です。
「そう僕達はあらゆる全ての場所で繋がってるから」
「この言葉について考える君とだってもうすでに」
「ああ僕達がいつか永遠の眠りにつく頃までに」
「とっておきの言葉を果たしていくつ交わせるのだろう」
聴き手に人生観のいっぱい詰まったメッセージを送り届けるには余りに短すぎるというものです。結果として、斬新な音楽性にもかかわらず、詞が「私信」以上には昇華し切れていないというのがじょいじょいの実感です。
いや、むしろ、われわれはこの作品を、歌詞の意味の読みとれない海外作品に対してやるように、あくまで音楽として、耳で聴くことに徹するべきなのかもしれませんね。いつも海外作品に対してはそうやって接していて、しかも優れた作品を十分鑑賞できているわけですから。
実際、このアルバムの中でもこの作品は最も好きな曲のひとつです。初めて聴いたときから、良い意味で妙に耳にひっかかってくるのです。Ferryの卓越した作曲・編曲とayuの音域ぎりぎりのハイトーンボイスとがうまく相乗効果を出していると思います。詞は確かに重要ですが、詞の意味がなくても、音楽は十分我々を感動させてくれるという当たり前といえば当たり前のことを、この作品は実感させてくれます。
最後にひとつだけ、初めて聴いたとき抱いた期待が、その後の状況を見ると外れてしまった部分について触れておきます。
この作品を初めて聴いたとき、「WHATEVER」同様、これからたくさんのリミックス作品の「タネ」となっていくべき素材だと思われました。しかしなぜかその後、この作品のリミックスが作られたという話はとんと聞きません。これはどういうわけでしょうか? 何かFerryとの間に版権か著作権の取り決めがあるのでしょうか?
じょいじょいの勝手読みとしては、おそらく、優れた音楽性にもかかわらず、音楽的構成に少し単調なところがあり、味付けがしにくいため、rimixerから敬遠されているのではないでしょうか。そこがちょっと残念ではあります。
■「UNITE!」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
最初聴いたときには決して良いと思わなかったのに、後から評価を上げる作品というものがあるものです。じょいじょいにとってこの「UNITE!」はまさにそういう作品のひとつです。
シングルとして発売された当初から、じょいじょいにはどうしてもこの作品が我慢なりませんでした。誤解されないようにしたいのですが、わたしはこの作品の音楽性については始めから評価しているつもりです。
問題は、「自由を右手に 愛なら左手に」という手垢の染みついた常套句をサビの一番重要な部分に臆面もなく使うayuのayuらしくない無神経さ・創意工夫のなさと、プロモーションビデオやドームツアーで見せた、あのどうしても軍隊やナチスを想起させる迷彩服の一団が団結(UNITE)して拳を振り上げるシーンとにあります。
前者については、自分の言いたいことにできるだけ近い言葉をぎりぎりまで探し続ける姿勢こそがayuのayuたるところだと思うのですが、それをいとも簡単に放棄しているように見える、それがじょいじょいにはどうにも容認しがたいのです。
また後者については、これは十代の若い方々には実感がないかもしれませんが、ナチスを想起させるような服装や行為は、いま生きている多くの世代にとって、特別の意味合いを持つことにもっともっと自覚をもってほしいと思います。「過去のことは過去のことで、もういい加減に気持ちを切り替えて、未来に向かって踏み出そうよ」という意見は至極まっとうな意見ではありますが、戦後50年以上が過ぎても、拭い去ることのできないトラウマは、未だに全世界に厳然として存在しているのです。残念ですが。ayuのあのパフォーマンスが仮に反戦の意思表示として逆説的に軍隊的なイメージを取り上げているのだとしても、(私にはどうしてもそうは思えませんが)やはり人々の感情を考えれば、ああいうことを安易にやるべきではなかったと思います。
いや、たとえ上の世代の固定的なイメージがなかったとしても、あのパフォーマンスは、「私はロッカーでもありたいの。どう? ロックミュージシャンとしても一流とは思わない?」と露骨にアピールしている「いかにも」なものに見えて、あまりいい気持ちはしませんでした。じょいじょいが少々ひねくれてとらえすぎなのかもしれませんが。
そんなわけでじょいじょいにとって、「UNITE!」は最初から良い印象を持てない作品として存在するわけですが、今回、純粋に耳からのみ鑑賞してみて、この作品がCREAの作品にもかかわらず(ごめんなさい、これ、実感です)、思いのほか優れた音楽性を有していることに気がついた次第です。こうなってみると、なおさら、あの「自由を右手に 愛なら左手に」という安易なフレーズと迷彩服姿の印象が悔やまれてなりません。
最近のayuはどうもロックを自分のスタンダードナンバーにしたいという意識が強いようで、それが自分で作曲するに至ってようやく実現できる環境になってきたわけですが、 これらがなければ、この作品は一般の音楽通に対して、ayuのロックシンガーとしての新たな側面をもう少し強くアピールできたのではと思えるのです。
■「evolution」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
この作品もシングル発売当初からじょいじょいにとってあまり好きになれない作品です。そもそもこの作品が初めて世に出たのはカウントダウンライブにおいてですが、そのときの発声の曖昧さ、言葉を大切にしているとは思えない歌い方に対する反発が「刷り込み」されて現在に至っています。実際、あの場でこの歌が何を歌ったものか理解できた人はまず殆どいないのではないかと推測します。そういえば「wow yeah」を「前へ」と理解していて、後で歌詞カードを見て、初めて誤解に気づいたという人も多くいたように記憶しています。ayuは歌詞に英語を使わない主義なのにこの歌はそれを破っているといった反発の声もありましたね。「wow yeah」を英語ととるかすでに日本語と化した擬音語ととるかは、まあ微妙なところですが、本質的な議論ではないでしょう。ただ、このあまり意味のない擬音語がこの作品の至る所で繰り返されるのを聴いたとき、世間によくある通俗的なロックを想起したし、ayuはここで思考停止し、詞を紡ぎ出す作業から逃げているなと感じたものです。
詞についてもう少しコメントします。
この作品では、このかけがえのない地球、このかけがえのない生、このかけがえのない時代を「君」と共有できていることへの感謝と喜び、「生」の肯定、そしてその中でしっかり自分を持って強く生きることの大切さが語られています。しかし、ただそれだけではいかにも普通のメッセージに終始しています。そこに人がはっとするような人生観的味付けを加えるのがayuの詞の特徴だと思うのですが、どうもその味付けが欠けている。唯一、我々が生まれてくるときのいわゆる産声が、「なんだか嬉しくて」「なんだかせつなくて」泣きながら生まれてきたんだという発想が斬新ではありますが、これだけでは…というのがじょいじょいの正直な感想です。
これもじょいじょいの勝手読みですが、この作品を作った時期はちょうどayuが作詞に加えて作曲に手を出し始めた時期で、そういう音楽的実験の方に夢中になっていたことと、21世紀を迎えるという滅多に体験できないイベントの重なったカウントダウンライブに向けて、前向きの元気な曲をとにかく完成させたいとの気持ちが強かったことから、詞の方の錬成が若干手薄になってしまったのではないでしょうか。
誤解があるといけないので、付け加えておきますが、もしもライブを盛り上げる活きのいい曲を作るのが目的だとしたら、この作品は見事にその目的を達していると思います。その意味では申し分のない出来ですし、この手の作品がそれまでのayuには少ないですから、貴重な財産であることに間違いはありません。実際、 あの歌い方と詞の厚みのなさを度外視してこのアルバム収録を機会に改めて聴いてみると、「UNITE!」同様、音楽的にちょっと見直したというのが実感です。
ただ、ライブであの宇宙人のような、わざとつぶれたような声で歌われるのには個人的に大いに辟易しています……
■「Naturally」 (作曲:CREA 編曲:CMJK)
ayuがayuの「王道」を示した作品であり、このアルバムに収録された作品の中でも最も完成度の高い作品だと思います。余談ですが、この作品を初めて聴いたとき、わたしは『LOVEppears』所収の「And then」を思い出しました。そして、今のayuにもまだこのような作品が書けるんだという率直な驚きと喜びを覚えました。ayuはやっぱりayuなんだと。
音楽的には、最初聴いたとき、てっきりD・A・Iの作品だろうと思いました。ayuは非常に頭のいい人で、既存のもののエッセンスを吸収して自分のものにする力に優れていると思いますが、作曲の面でもその能力を存分に発揮しているようです。
詞のモチーフは「I am...」とだいたい同じで、やはり、創造者・探求者・アーティストとして孤独の中、がむしゃらに「生き急ぐ」日々の中でぶち当たるさまざまな矛盾、見え隠れする限界、先の見えない不安に揺れ動く心、そしてそんな矛盾と孤独を抱えたままのありのままの自分を強く生きていこうという決意、そしてそれを分からせてくれた「あなた」への感謝の気持ちを表白していますが、「I am...」よりはもっと深堀りされ、具体化されています。
このモチーフについて、この作品を初期の「Trust」あたりと比べてみるとなかなか興味深いものがあります。いずれも過去と現在の生きる不安が表現されており、それが「あなた」のおかげで新たな生の局面へと導かれたという内容になっています。しかし、初期の作品では、諦めたり卑下したり他人を傷つけるのが怖かったり周りばかり気にしていたりする弱い自分がいるのに対して、「Naturally」では目標に向かった戦いを続ける自分がいます。この3年ほどの間でayuの人生のステージは明らかに大きく前進しているのが見て取れます。しかしだからといって、矛盾や葛藤はなくなったかというとむしろ大きく深くなったかもしれません。その心の迷路に一条の光を導いてくれたのが、再び「あなた」だった−。
これはあくまでもじょいじょいの勝手な推測ですが、「Trust」のときの「あなた」と「Naturally」の「あなた」は、≪あの≫同一人物だと思います。決して最近話題の恋人ではないでしょう。
まあ、それはさておき、このアルバムの中にどうしても「ayu節」は欠くべからざるものであり、「Naturally」はそれを忠実に表現したものになっています。あまりにayuらしいところが鼻につく人もいるかもしれませんが。
■「NEVER EVER」 (作曲:CREA 編曲:CHOKKAKU)
ayuが自ら作曲を手がけ始めるようになってから、最も抵抗感の少なかったのがこの「NEVER EVER」です。この作品についてはシングルとして発売時に、このピリ辛いためで取り上げています。(2001年3月20日参照)
ノスタルジックな前奏から続く静かな導入部が全体の基軸を提示し、その後の比較的激しい主題部との対比が印象的な、ayuの持ち歌には珍しい3連符の作品です。
「もしもたったひとつだけ…」で始まる主題部が、いきなりクライマックスになっている構成に唐突な感じを受ける人もいるかもしれません。静かな導入部との間にもうひとつ何かサンドイッチとなるものがほしい気は確かにします。詞と曲の両面に、その「あともう少しの何か」が加わっていれば、この作品はもっと広い層に受け入れられるスタンダードナンバーになっていたかもしれませんね。
それを詞の面からとらえると、言説が十分に尽くし切れていないため、聴者の心に共鳴するまでに至っていない可能性があります。じょいじょいの理解する限り、この作品の主題は、
自分は「不変なもの」をずっと探し続けてきた。そしてようやく「君」の私への不変の愛を獲得したと思ったのに、それも失ってしまった。「君」の愛がなければ、自分は生きている意味がない。私の「君」への愛はいまも不変だよ。だから、もしもたったひとつだけ願いが叶うとしたら、私は、「君」の私への変わらぬ愛をもう一度くださいとお願いする。いま私から「君」へ「不変なもの」を差し出すことができる。それは「君」への変わらぬ愛。だから「君」の愛がほしい−。
ということだと思います。(ちなみにここでの「君」も、ayuの初期作品から絶望3部作を通って現在に至るまでの「君」や「あなた」と同一人物だとじょいじょいは確信しています。一度だけこのあたりの事を「ピリ辛」に書いたことがありますが、根拠の希薄な憶測に過ぎなかったのですぐに抹消しました。しかし、最近出版された『浜崎共和国』のayuのコメントを読んで、じょいじょいの理解が間違っていなかったことを確信しました)
このような作品の主題を、その背景とともに理解してようやくこの作品に共鳴できるのかもしれませんね。もしそうだとしたらやはりもう少し抽象度を落とし、適切な言葉で主題を補足した方がよかったのではと思うのです。
とはいえ、最初に言ったように、じょいじょいはCREAの作品の中では比較的好印象を持って受け入れている作品です。音楽的にも詞的にも特段の新奇性はないかもしれませんが、かわりに全体がバランスよくまとまっており、安心して聴くことのできるナンバーだと思います。ここでも歌い方と歌声への不満を除けばという但し書き付きですが。
■「still alone」 (作曲:CREA 編曲:CMJK)
「Naturally」と同じ背景を担った作品です。しかし「Naturally」では「あなた」との別れは明示的には描かれておらず、まず孤独ありきで、その孤独の中でクリエーターとして格闘する中でぶつかった壁、それを乗り越える力を「あなた」の言葉によって得ることができた、「あたし」はこれからもありのままの自分をさらけ出して孤独のなか前進していこうと決意が語られるのに対して、この「still alone」では、「君」と別れてから、「私」も同じ孤独な戦士として生きるようになって初めて、クリエーターとしての「君」のことが理解できるようになった、同じ道を共に歩いていくはずだったのにどうして「私」は「君」と別れてしまったのだろうと、あくまで「君」への後悔の念を表すことに終始しています。
どちらかというと、「Naturally」では強いayuが、この「still alone」では弱いayuが語られているといえるでしょう。
音楽面でこの作品を見てみると、もう少し編曲がどうにかならなかったかなと感じます。CREAの作品自体が若干平板なところがあるので、そこを編曲でカバーしているというのがCREA名義の作品の実情ではないかと思います。しかし、この作品については、何というか、全体にべたべたとした平板な音づくりに終始していて、曲の平板さを助長しているところがあると思うのです。(編曲のこの「べたべた」さや音の汚さは実はこのアルバム全体を通して感じる欠点なのですが)
それは特に「その夢守って行くためには 私がいちゃいけなかった」以降のサビの部分で特に顕著に感じます。詞がなかなか良いと思うので、そこが残念で仕方ありません。
それにしても、最後の「約束は覚えているの 忘れた日はないの」というフレーズはとても意味深ですね。どんな約束なのでしょう? 二人だけが知っている共通の暗号なのでしょうか?
聴き手それぞれに自分なりの「約束」を思い描いてもらおうとする技巧としての「抽象表現」ではなく、ayuと「君」にしか分からない具体的な「約束」(つまり私信)をこっそり(でもないか)詞の中に潜り込ませたayu特有の仕掛け(遊び心)ではないかなと何となく思えるのです。いや、根拠はありません。
■「Daybreak」 (作曲:CREA + D・A・I + junichi matsuda 編曲:tasuku)
この作品は3人の合作という珍しい形態をとっていますが、それぞれの作曲家の持ち味をうまく生かしたものに仕上がっていると思います。(といっても松田純一さんの持ち味はまだよく把握できていませんが)
ayuには珍しい明るくポジティブなバラード曲で、このアルバムの中でも特に好きな作品のひとつです。
内容的には、ある共通の目標に向けて歩んでいた「君」と「僕」がいまは遠く離れているけれど、心はいつもそばにいるつもりだよ、だからこれからも、あの見果てぬ夢目指して二人して歩いていこうという主旨であり、これは「Still alone」の背景とほぼ同じ構図だと思われます。ただ両者が決定的に違うのは、「Still alone」が離ればなれになっていることをネガティブにとらえ後悔の念が支配しているのに対して、この「Daybreak」では別離を前向きに受け止め、昔、ともに見つめた目標に向かって再出発しようとしているところです。
そして、こう考えると、「Still alone」の最後の「約束は覚えているの 忘れた日はないの」という一節と、「Daybreak」の最後の「いつかあの日夢見た場所へと 旅してる同志だって事を 忘れないで」とが実は同じことを言っているのではないか、そしてそれは音楽の世界において永遠に残る作品を作り上げるという目標なのではないかという仮説を立てることもできます。まあ単なる一仮説ではありますが。
作詞の技術の面から見ると、この作品でも、ayuらしい思索性・思想性のあるフレーズがそこかしこに散りばめられ、抜群の冴えを見せています。具体的には
きっと光と影なんて
同じようなもので
少し目を閉じればほらね
おのずと見えるさ
とか
全ては偶然なんかじゃなく
全ては必然なコトばかり
かも知れない
などは涙もののフレーズですね。(最後に「かも知れない」を付け加えたところも憎い限りです)
ところでこの作品は、アルバムに収録されたあとに、リカット・シングルとして発売されましたが、そのときにMixを大幅に変えていますね。シングル版の方は、より憂いを込めたアレンジになっていますが、確かにこのアルバムバージョンの欠点は、徹底的にポジティブだという点かもしれません。実際、初めてアルバムでこの曲を聴いたとき、味付けとしてもう少しマイナーな部分もあった方が、全体が引き締まるのになあと感じたものです。しかし、シングルバージョンの「Daybreak」は逆に「憂い」が過剰になっており、じょいじょいの個人的な好みからすると、このアルバムバージョンの壮大な感じの方が好きです。
より微妙な匙(さじ)加減の効いたリミックス曲の出現をぜひとも待ちたいという気持ちが大です。
■「M」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
この作品もそうなのですが、ayuの作曲する最近の作品は、総じて、発表当初よりも、後になってから、その音楽的な価値を理解できるようになるものが多いように思われます。これはどうしてなのでしょう?
きわめて好意的に解釈すれば、ayuの音楽的な先進性に我々がすぐにはついていけていないともいえるかもしれませんが、じょいじょいはそこまで肯定的にとらえることはできていません。ayuの音づくりが世間的な音づくりの「常識」から若干はずれたところでなされており、既存の音楽に慣らされた者にはそれがどうも拭いがたい違和感として立ちはだかるように思えます。そしてその違和感が何度も聞いているうちに慣れてきて、だんだん薄まっていくのだと思います。しかし慣れることによって違和感を感じなくなるということと、その作品が既成概念を打破する新時代の音楽だということとは全く別次元の話です。
真に時代を変える音楽は、やはり既成概念を打ち破るものを持っていますが、同時にそれはそれを初めて聴いた者に即座に「あっ!」と思わせるだけの圧倒的な説得力、まさに「目から鱗」を落とす力を持っているものです。自分の「常識」が実は作られた「常識」であることを直感的に気づかせ衝撃を与えてくれるものこそ、一時代を築く音楽といえるでしょう。その点からすると、ayuの作曲する作品の「違和感」は、どうしても「違和感」という所にとどまっているように感じられるのです。
ただ、私は何という意地悪をしているのでしょう?
この1年や2年の間に作曲を手がけるようになった者の作品を、一時代を築いた数少ない偉大な作品を引き合いに出して論ずるのは余りにも酷というものです。「ayuが作曲? そんな甘いもんじゃないよ」と言っていたことを考えれば、ayuは思いの外よくやっていると思います。何よりも感心するのは、既成の概念にとらわれずそれを乗り越えていこうというayuの明確な意志がそこに感じられることです。ayuは無知で「違和感」を残しているのではなく、意識的に「違和感」を作っていると思います。ただ先程も言ったように、それがもう一皮むけていないのが現在の状態だと思うのです。
ちょっと総論ぽくなってきたので、ここで話を「M」に戻しましょう。
この作品は作曲、作詞とも、ayuが自ら手がけた最初の作品になります。この作品については、発表された直後の2000年12月13日付けの「本日のひとりごと」の中で次のように書きました。
「 入荷日にayuのCDを買わなかったのは久しぶりのような気がする。今日も買うかどうかわからない。理由は簡単だ。テレビで聴いた「M」が残念ながら作品として水準に達していないと感じたからだ。特に楽曲の完成度が全般に低いのと、いつものような詞と曲の絶妙のおさまりの良さが今回に限っては欠けているように思える」
この発言を巡って、「水準」とは何か、そんな絶対的なものは存在するのかといった議論が巻き起こった記憶があります。しかしこの思いは基本的に今も変わりなく持っています。この作品の音楽的常道を無視した座りの悪さは、旧習を破壊する革命者としての逸脱にまでは達してなく、ただ音楽的な常識を知らないが故のものだと。そしてその思いは、雑誌「Rockin' on Japan」誌上でのayu自身の発言「またなんかいきなりこう、素人ちっくなというか、自分には凄くそういう風に聞こえるんだよね。なんかこう……自信は全くなかった。(中略)歌入れ終わって聴くと、『はぁ〜』って。『大丈夫かな?』ってもうしつこいくらい聴いてた」「あの作品はそんなに売れる感じじゃなかったと今も思ってる。(中略)あんなに売れちゃいけないと思ってた」(2001年4月号72〜73ページ)という発言によって、裏打ちされたと思っています。
ただ不思議なもので、さんざん聞き慣れてみると、これもありかなと思えてくるものです。もう少しアレンジをうまくやれば、逆に斬新な作品として輝きを保つものになるかもしれないと。
そうは言っても、どうしても納得できないところはあります。それはやはりあの歌い方です。そもそもこの詞とこの曲想であれば、あんなに演歌っぽく、小節まがいの飾り付けをして悲痛な歌い方をする必要など全くないと思うのですが、ayuはなぜかあの歌い方を全く変えようとしませんね。いつも結構まともな意見を言ってくれる我が家族たちもそろって「ayuはいつから演歌歌手になったの」と批判的です。(この批判はCREA名義作品ほとんどすべてに共通しています)
わたしなどは、PVであのマリアのコスチュームをまとうくらいなら、歌い方も聖歌を歌うときのような、たとえばENYAのような歌い方の方がずっとこの曲とayuの魅力を引き立てることができると思うのですが。どんなものでしょう。
■「A Song is born」 (作曲:小室哲哉 編曲:小室哲哉)
先に発売されたKEIKOとの同名の(厳密には大文字小文字の違いあり)共演作が耳にあまり快くなかったので、何でこの作品をという思いが最初はありました。しかし一度聴いてみたら、逆にayuが何故このアルバムにこの作品を入れたかがよくわかるとともに、アルバム収録曲の中でも3つの指に入るくらいお気に入りの作品となりました。
やはり共演ということで遠慮があったのでしょうか。編曲の小室さんに対しても共演のKEIKOさんに対しても。きっと音入れ直後からどうしても納得できなくて、今回のアルバムでの全面取り直しとなったのだと思います。
この作品は著名アーティストがよくやる反戦キャンペーン曲のひとつです。じょいじょいはこの手のパフォーマンスはどうも偽善というか、単純な善悪論に終始する傾向が強いため毛嫌いしてきました。しかし今回ayuの詞に触れて、「ああ、やはりayuは違うな」と改めて感心した次第です。普通は単純に「戦争やめよう」「人類みな兄弟」的な乗りになってしまいがちですが、ayuは決してそんな真実から遠ざかり思考停止に陥るような詞を書こうとはしません。反戦も好戦も、それが自らの熟慮の中から出てきたのでなければ結局同じことなのです。立ち止まって自ら考えることがすべての出発点になることをわかってもらうこと。それがayuの良心なわけです。
この作品は、歌唱法の点でもayuのこれから進むべき道を暗示しているように思えます。すべてを柔らかく包み込む「聖母マリア」を彷彿とさせるような歌声。これは最近のayuのメジャーな歌い方とは対極にある歌い方ですが、じょいじょいにはとても心地よくきこえます。ayuが望むかどうかはわかりませんが、ayuが今後長くアーティストとして生き残っていくとしたら、きっとこういう「癒し系」の音楽のつむぎ手としてなのではないかと思うのです。
■「Dearest」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki)
「Dearest」は間違いなくayuの代表作のひとつです。それを否定する人はほとんどいないでしょう。昨年末の賞総なめの際もayuはほとんどすべてこの作品で勝負していましたから、普段ayuの歌に接することのない人たちの耳にも何度となくこの曲が流れていったに違いありません。
じょいじょいも当然の事ながら、この作品を最初に聴いたとき「SEASONS」に匹敵する代表曲になるだろうと予想しましたが、同時に売れれば売れるほど、曲想が若干単調なところが人々を飽きさせるのではという懸念も持ちました。そしてその懸念は現実のものになったように思います。そしてayuが技巧の限りを尽くして一生懸命歌い上げれば歌い上げるほど、お腹いっぱいの目の前にデコレーションケーキを丸ごと出されたときのような嬉しいけど鼻につく状態を味わわされることになるのです。
「もしもXXだったら」という仮定の話をしてもあまり意味はありませんが、もしもこの作品がCREAとD・A・Iの合作でなく、D・A・I単独の作だったとしたら、もしかしたら本当に「SEASONS」に匹敵する作品に仕上がっていたのではないかという根拠のない思いもじょいじょいにはあります。逆の言い方をすれば、曲作りにD・A・Iが参加したからこそここまでの名声を獲得できたともいえますが。これって意地悪ですかね。でも本当にこれはじょいじょいの実感です。この「Dearest」に限らず、CREAの作品の弱点はまさにそこにあるからです。
さて、詞の内容にも触れたいのですが、この作品が出た時期が時期だったので、世間ではこの詞の「お相手」は公私とも公認のあの若き恋人に違いないと考えられたに違いありません。しかしじょいじょいにはやはりここでも「お相手」はあの例の人に違いないと思いましたし、今ではそれが確信に変わっています。
しかし音楽鑑賞するのにその言葉の字義を通り越して、その裏側にある創作の舞台裏に踏み込むのは、なんだか間違っているような気もします。そうなのですが、ファンとしては単にその作品というにとどまらず、アーティストそのものにこそ興味があるものなので、必然的にそういう話に行ってしまいがちで、それも仕方がないかなと思っています。
詞の内容としては、いかにも万人受けしそうな、危機と困難を乗り越えた恋の成就の物語ですが、ayuらしい捻りに欠けているところが先程の「単調さ」という現象として現れてくるのだと思います。しかし、世のスタンダードナンバーというものは概してそういうものだし、スタンダードナンバーが必ずしも「マイベスト」にはならないというのも世の常です。
あと、ayuがこの歌を好んで歌うのは、ayuにとって非常に歌いやすい曲だということが大きいのだと思います。「Boys&Girls」や「Fly high」などといった曲では思いのほか音程をはずしたり、声が出なかったりするのに比べ、この曲は非常に安定した状態で歌い込むことができています。このギャップがあまりにも激しく、じょいじょいには不思議で仕方がありませんが、これは「SEASONS」にも言えることです。いわゆる「ayu節」でない作品に限って、ayuが最も評価されるというこの事実。別の言い方をすると、ayuが歌いたい歌を歌うことが必ずしも世間が欲していることと同じ方向ではないという事実。この事実にどう正面から向き合うかが、ayuの今後を占う上で重要な意味を持つものと思われます。それでもayuは自分の歌いたいものを歌うことに固執し続けるのか?
■「no more words」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki + tasuku)
ayuの作品は大きく、自分と「あなた」との1対1の内面的関わりを題材にしたものと、目を聴き手(みんな)や社会というものに向けて発せられたものとに分けることができます。後者は社会的影響力とその中での自分の役割というものを自覚し始めた「AUDIENCE」以降に見られるようになった新たなステージの産物といえます。「AUDIENCE」、「Duty」、「evolution」、「A Song is born」などがこの分類に入りますが、この「no more words」もやはりこの範疇に分類される作品です。直接的にはあの「世界同時多発テロ」に触発された「A song is born」で語りきれなかった部分から派生して生まれたものと考えていいと思います。そしてきわめて冷静に哲学的に人生観を語るこの作品はある意味、ayuの作品の中では異色の部類に属するといえるかもしれません。その後のツアーでの取り上げ方を見る限り、ayu自身もこの作品の出来映えには自信を持っているように見えます。
ただ個人的感想を述べさせていただくと、前半からサビに向かうところまでは文句なしの出来なのに対し、肝心のサビの部分、「敗者でいい いつだって敗者でいたいんだ」の一節には、残念ながらCREA作に共通な据わりの悪さが現れていると感じます。詞そのものについても、言いたいことはよくわかるけれども、ここで勝者と敗者の二元論を持ち出すのは誤解のもとです。また、最後の「今はこれ以上話すのはやめとくよ 言葉はそうあまりにも 時に無力だから」
というフレーズが、いかにも取って付けたようで、作品の収束のさせ方を模索する努力を途中で放棄したような印象を受け、残念でなりません。
じょいじょいの中では、「名曲になり損ねた名曲」という感じです。
■「Endless sorrow 〜gone with the wind ver.〜」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki + tasuku)
この作品はシングルとして発売当初、好きになれませんでした。この作品に底なしの暗さを感じたのと、主題歌としてタイアップしたドラマ「昔の男」のあまりの陰湿さ、そしてayuの相変わらずの悲痛な歌い方がそれをさらに助長していたためです。
その後、ドラマが終了し、そのマイナスイメージが記憶から消えて行くにつれ、この作品の持つ「美しさ」が少しずつ自覚されるようになりました。そしてそうこうするうちにこのアルバムが発表されたわけです。
ayuはこの作品をアルバムに収録するに当たって、編曲のみならず、詞と曲の両方に手を入れています。アルバム初収録の際にここまで手を入れるのは異例のことと考えていいでしょう。それだけayuはこの作品に不満を持っていたことになります。実際、いろいろな場所でayuは、この作品を作った時期が精神的にどん底にあるときだったため、ひどく厭世的になっていることを後悔する発言をしています。
ayuは詞と曲にざっくり手を入れ、絶望の果てに微かな希望の光がほの見えるようなストーリーに仕立て直しています。ここにayuの成長の跡が現れていると思います。それまでは、落ち込んでいるときは徹底的に暗い作品を、ハイなときには徹底的にポジティブな作品をというように、ころころ変わる個人的な気分をそのまま反映させた作品づくりをしていました。それがayuの作品づくりのコンセプトですらありました。しかし最近は、作品を受け止める聴き手の受け止め方や社会的影響なども考慮した作品づくりを心がけるようになってきています。
手を入れた後の詞と曲は出来映えは上々だと思います。編曲はayuの意を汲みすぎて、過剰に明るい感じで仕上げてあり、これがこのアルバムバージョンの評価を二分するでしょう。かたや「絶望の中の希望をうまく表現できておりオリジナルにさらに厚みを加えている」、かたや「妙に明るくてオリジナルのせっかくの雰囲気をぶち壊している」と。どちらも頷ける評価だと思います。じょいじょい個人は、確かに明るい方向にちょっと振れすぎている嫌いはあるとはいえ、このアルバムバージョンの方がオリジナルより好きです。今後、この新バージョンに対して、より的確にayuの意図を汲んだ新たなミックス作品が登場することを期待します。
なお、この作品ではayuの声が他の作品よりも澄んで聞こえます。これは、他の作品の音入れがツアー明けでまだ喉が荒れていたときのもので、この作品の音入れがアルバム作成の最後、喉の状態が普段に戻ってきたときになされたものだからだと予想します。そしてそれもこのアルバムバージョンを聴きやすいものにしている要因のひとつだと思います。
さきほど「A Song is born」のときに論じたayuの歌唱スタイルの今後のあるべき姿がまさにここに示されているとじょいじょいは確信します。
■「flower garden」 [シークレットトラック] (作曲:不明 編曲:不明)
正式なリリースではないので、コメントは差し控えさせていただきます。
3.最後に
『I am...』は、ayuがCREA名義で作曲を手がけるようになって初めてのアルバムです。そしてこのアルバム収録曲14曲中、実に12曲までがCREA(+α)作曲となっています。その意味でこのアルバムはayuの新たな展開を示す記念碑的な作品となっています。
ここで再び2000年元旦の新年会でのayuの発言とそれに対するじょいじょいの当時のコメントを再掲しましょう。
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さて、このアルバムで、上の目標「幅広い層から支持され300万枚売り上げる」はどの程度まで達成されているでしょうか?
いま改めて聴き直してみて、詞・曲ともなかなか充実していると思います。それはこれまで見てきた通りです。ayuは創作技術の面で着実に成長していると言えるでしょう。
しかし、作品そのものの高質性と、それが一般大衆に受け入れられることとは必ずしも一致するわけではありません。ちょっと残念ではありますが。
そういえば宇多田ヒカルの最新アルバムの売り上げが発売3週間にして300万枚を突破したとのニュースが入ってきました。宇多田ヒカルが「幅広い層から支持され」ていることは疑いようのない事実でしょう。それに比べて、ayuの方は依然、10代には圧倒的な支持を受けているにもかかわらず、それ以上の世代にはなかなか食い込めていないというのが実情のようです。
詞の内容、曲の完成度は十分のように思われますし、むしろ玄人受けする内容ですらあります。では宇多田ヒカルにあってayuに無いものは何なのでしょう?
これはあくまでじょいじょいの私見でしかありませんが、大衆に受け入れられるための重要成功要因は、実は作品の技術性よりも、曲想、歌声と歌唱法、人間性やアーティストとしての姿勢にあるのではないでしょうか?(もちろん詞の内容は最重要ですが)
そして時代は「癒し」や「快さ」を求めている。また、音楽に真正面から(脇目をふらず)立ち向かう専門家としての真摯な姿勢や人間的なノーマルさ・安定度を求めている。
話がまた飛んでしまいますが、最近、中森明菜が再デビューしました。芸能生活20周年だそうです。じょいじょいも同時代を生きてきたので彼女のことはよく知っているつもりです。そしていま彼女を目の当たりにして、ayuに妙に二重写しして見えるのはじょいじょいだけでしょうか? 彼女も一時期一世を風靡したアーティストです。まさに尖ったところ、「私」というものを全面に押し出したアーティストでしたが、次第に時代から必要とされなくなっていった経緯があります。そしていま、やはり時代はそういう音楽を欲してはいないのではと思われます。(中森明菜さんを引き合いに出して、ご本人およびファンの皆さんには申し訳なく思いますが、この辺りが本当に重要なキーになっていると思われるため、敢えて言及しています)
ただ、ここで注意しておきたいのは「時代」とか「大衆」と呼んでいるものの実体はあくまで最大多数の聴き手という意味に過ぎないということです。最大多数派に受け入れられるのがすべてではないこと、悩みや壁にぶち当たっている少数派のための音楽が実は最も切実に望まれているとさえいえることを忘れてはならないと思うのです。
いずれにしても、すごく感覚的な話になりますが、ayuが「幅広い層から支持され」るようになるとすれば、それは、アルバムタイトルを『I am...』ではなく、『We are...』、『Duty』ではなく『Pleasure』と名付けることが出来る心境になったときではないかと漠然と思うじょいじょいです。
相変わらず辛口のコメントが多くなってしまいました。これはここが「ピリ辛炒め」だからというわけではありません。無理矢理重箱の隅を突ついたわけでもありません。じょいじょいが本当にそう感じるところをあるがままに書いたつもりです。そこだけは誤解しないでくださいね。
今回も長い長い文章に最後までつき合ってくれてありがとう。
この文章がayuを通して皆さんの生き方や進むべき道を考察するための触媒になれば幸いです。
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1. Close to you [ あさ☆のひとりごと。でしょ? ] 2005年06月05日 13:22
Close to you JASRAC:105-9387-0 作詞:浜崎あゆみ 作曲:CREA ねぇ 変わってくものは 確かにあるけれど ねぇ 変わらないものも ここにはある事を 信じていられるようになったのは 伝えてくれる君がいたから 誰もいつかたったひとりの 人に出会うため歩いてく 僕は君に出
2. 今は今のayu [ 浜崎あゆみ | ayumi hamasaki log ] 2006年03月10日 09:30
Ayu!love!ayu!で、当サイトが紹介されていますが、当時のことなので、



















