2007年05月24日
古いVHSから…TV番組『アートの遺伝子Z』その他
最近はTVドラマなどはもっぱらDVDレコーダに録画して、後から休日などに視聴しているわけですが、保存したいときは当然のことながらDVDに焼いています。
ただ過去にVHSテープで撮り貯めていたものも結構あって、その取り扱いには誰しも苦慮していることと思います。
私の場合、ほとんどは思い切って捨てているのですが、ayuのテレビ出演記録だけは貴重な記録だし、今後おいそれとは再放送されない類のものと思われるので、連休を使ってDVDに移してみることにしました。
実をいうと何が入っているかもわからない状態だったのでわくわくしながらダビングを開始したのですが、期待通りレアなものがたくさん出てきました。
ちょうど1999年から2000年頃、ayuがデビューして2年目から3年目あたりの映像です。
■『アートの遺伝子Z 〜浜崎あゆみの遺伝子はピノキオだった』
昔(2000年ごろ)『アートの遺伝子Z』という番組があったのをご存知でしょうか?
日本テレビの深夜枠だったので知名度はかなり低いと思いますが、第18回ATP賞(社団法人全日本テレビ番組製作社連盟主催でディレクタやプロデューサが自分たちで優れた作品を選ぶ賞)を受賞しています。
いろいろな社会現象、文化現象を「遺伝子」というキーワードで半ば強引に理屈をつけて解き明かそうという非常に斬新な(別の表現では奇抜な)趣向の番組で、テーマによってはこじつけが過ぎてお話にもならなかったりします。
この番組の第9回でayuが取り上げられたのですが、サブタイトル曰く「浜崎あゆみの遺伝子はピノキオだった」。
内容はというと、「二面性」「矛盾と葛藤」「自分探しの旅」という言葉をキーワードにして、ピノキオ、中世の男性の女声歌唱カストラート、石川啄木のローマ字日記などを敷衍し、ayuの人気の本質に迫ろうという野心作です。
■第一のキーワードは「二面性」
まずayuが人を惹きつける大きな理由の一つである、あの大きな瞳について論じられます。
なぜ人は大きな瞳に憧れるのか?
それは人間や動物が喜びの感情を表現するときに瞳孔を開くことと関連しているとします。
つまり大きな瞳は大きな喜びにつながっているというわけです。
しかしそれと同時に大きな瞳は畏怖の念、畏敬の念をも喚起します。
それは生物の擬態に目をかたどったものがあったりカラスが目玉の風船を恐れたりという点に如実に現れています。
喜びと恐れが合体するとそこに宗教が生まれます。
つまりayuのまなざしは喜びと畏怖の相反する二面から、大日如来にも通じるオーラを放ち、それがカリスマとして人々を惹きつけるというわけです。
「かわいい」と「怖い」、「光」と「影」、「白ayu」と「黒ayu」のCDジャケット、ayuを見つめるもうひとりのayu、……など、ayuを取り巻くさまざまな「二面性」。
これがayuを読み解くキーワードになると番組は主張します。
■「ノンビブラート唱法」から「カストラート」へ
番組は次にayuの歌唱について取り上げます。
ayuの歌唱はいわゆる「ノンビブラート唱法」に属します。
つまり演歌などのように声を一定周期で震わせるのではなく、ストレートに声を響かせる歌い方で、教会音楽、賛美歌で多用されることからもわかるように、この唱法は相手に自分の心をストレートに訴えかけるのに適した歌い方です。
これがayuの詞とあいまって人々の心に大きな感動を呼び起こすと考えられます。
さて、教会音楽が出てきたところで番組は次に中世ヨーロッパの教会音楽の世界で珍重された「カストラート」という存在に目を向けます。
「カストラート」とは男性であるが女性のような高音域の歌声を聞かせる歌い手のことで、たいていの場合、声変わりが起きないように、男性器(睾丸)を取り去り男性ホルモンの分泌を抑えてしまう処置を施されるため、成人男子としていろいろな面で不都合が生じがちだったようです。つまり、カストラートは名実ともに神に、教会に、教会音楽に身を捧げた存在だったわけです。
このカストラートとayuの類似性を次に番組は主張します。
カストラートは男性でも女性でもない存在。その間で自己は引き裂かれ、奉職者としての名誉と俗世からの好奇な視線との板ばさみにもがき苦しみます。
そしてその、自分とは何者かを模索する心の叫び、苦悩が、どこまでも澄み切ったあの歌声を磨き上げたともいえます。
ここでのキーワードは「自分探し」。
あのピノキオの冒険旅行もまさに本当の人間になるための「自分探し」の旅といえます。
■石川啄木「ローマ字日記」へ
「二面性」と「自分探し」という二つのキーワードが出たところで、番組はさらなる展開を見せます。
ayuの分析は次に言葉に向けられます。
ayuの詞には基本的に日本語以外の表現は使われません。
(2000年当時の話です。ご存知の通り、最近は海外進出を睨んでか、必ずしもそのような制限を自らに課していません)
これは伝えたいことをできるだけ的確に伝えたいというayuのこだわりによるものと考えられます。
ところがその一方で、作品のタイトルには一貫して英語が使われています。
タイトルだけで変な先入観、わかったつもりになられては困るという意思の現れだと思われますが、ここにも例の二面性が顔を覗かせています。
さらに込み入ったことに、ほとんどのタイトルが英語の中で、まれにローマ字タイトルが混ざっています。
たとえば初期の「Hana」(=花。本来なら「Flower」となるべき)、そしてその後の「kanariya」(本来なら「Canary」?)など。
このような多重の二面性がアーティストとしてのayuの奥深さ、神秘性を増す効果を醸し出すことになります。
話が横道に逸れそうですが、ayuが日本語でも英語でもないどっちつかずのローマ字を選んだことに番組は大いなる興味を寄せます。
番組ではここで、日記文学の最高峰とも言われる、かの歌人石川啄木の『ローマ字日記』へと話が展開していきます。
石川啄木は自らのどうしようもない欲望のはけ口を日記に求め、内面の赤裸々な告白をしています。
しかしそれを妻には見せたくないということで、暗号の一種としてローマ字を用いて日記をしたためました。
番組はこのような芸術家としての自尊心、社会人としての自制心と生物としての性欲はじめさまざまな欲望の間で揺れ動く芸術家の葛藤と、それを表白しなくてはならぬという芸術家の悲しい性(さが)とを、ayuにも見ます。
ローマ字の使用は、自分という存在の抜き差しならぬ矛盾と葛藤を表現するために必要だったというわけです。
こうしてayuを読み解く3番目のキーワード「矛盾と葛藤」が現れました。
■そしてピノキオへ
ayuは歌手になる前のアイドル女優の時代に、本来あるべき自分は今の自分ではないと居心地の悪さを感じながら芸能活動を続けていました。
アイドル女優という仕事は、有り余る表現への渇望を満たすものではなく、彼女は「操り人形」として生きるしかありませんでした。
そう、まさにピノキオです。
ピノキオが本当の人間になるために自分探しの旅に出たように、ayuも苦悩の末、いったん引退します。そのときから、ayu本人とアーティスト「浜崎あゆみ」という二面性を抱えて、険しい道のりを歩み始めます。
番組は最後にこう締めます。
<< 人形のピノキオは旅の中で必死に努力してついに人間として生まれ変わることができました。
ayuの道のりは本当の自分を探し続ける苦悩の旅。
すでにカリスマと呼ばれてしまった22歳(当時)の若きアーティストはこの先どこに向かうのか。
それは恐ろしく孤独で悲壮な決意に満ちた旅に違いありません。>>
このようにして、放送当時、日の出の勢いで躍進中の新進アーティスト浜崎あゆみについて、彼女が単なるアイドルではないこと、その輝かしい躍進の陰に深い暗黒の淵がほの見え、それが多くの人々に支持を受ける理由のひとつになっていることをこの番組では効果的に示しています。
■特別な存在としての浜崎あゆみ
こうやって当時の放送を振り返ってみると、あの当時にこのような考察を行い得た番組スタッフ(プロデューサだろうか?)はよほどayuをお気に入りだったのだろうなと感心します。
当時この番組を見たとき私が感じたのは、この番組を作ったのが実は自分ではなかろうか?というあり得ない妄想でした。それほどこの番組の作り方は当時の私のayuに対する心情および分析とマッチするものだったのです。
そして改めてこの番組を見て、デビューしてそれほどたっていないayuを特別な存在として認識し、こうして応援サイトまでつくった私の判断が決して偶然ではなく必然であり間違っていなかったということが確認できた。
■その他の掘り出し物
過去のVHSには嬉しいことに、このようなお宝がいくつもころがっていました。
たとえば、初めてayuを本格的にそして正当に評価した伝説の番組『スーパーテレビ情報最前線 「浜崎あゆみ−光と影」』。
これは後に続編が放送され、そちらの方はリアルタイムで見た方も多いだろうが(YouTubeにもアップされている)、この2000年当時の番組はayuのファン層を一気に広げたとされています。
また、あのB'zの「いつかのメリークリスマス」をB'z本人よりも自分のものとして熱唱した、NHKポップジャムの1999年クリスマス特番。
さらには珍しく「immmature」を歌った1999年から2000年の年明けのCDTVスペシャルなどなど。
こんなことを書くときっと、ダビングさせてほしいという依頼がたくさん舞いこむことが予想されますが、残念ながらそれに応えることはできません。だったらヨダレを誘うようなことは書くなよと言われそうですが、ごめんなさい。悪しからずご了承ください。
■知的所有権の今後
この際なのでちょっとひとこと。
私は個人的には現在の著作権法のやり方に反対の立場です。
もちろんアーティストなど知の創造者の知的所有権の保護は必要です。
しかし現在のやり方は商業主義に非常に偏ったものになっていると感じます。
芸術は自由に鑑賞できるのが本来のあり方であり、知的所有権の保護はそういう個人の自由な活用をできるだけ妨げない形で行われるべきだと思うのですが、今の制度はどちらかというと知的創造者本人よりも商品提供者の権利の方を保護しているように思われます。
ではどんな形だったらそういう理想が実現されるのかと問われると具体的な答えはまだ出せません。
しかし、1000年後を覗いてみたらきっといまとは全く別の知的所有権保護手段がとられ、いまの制度がいかに馬鹿げたものだったかが火を見るよりも明らかになっているものと予想します。
このあたりの話は簡単にはまとめられないので、また別の機会に論じさせていただきたいと思います。
ただ過去にVHSテープで撮り貯めていたものも結構あって、その取り扱いには誰しも苦慮していることと思います。
私の場合、ほとんどは思い切って捨てているのですが、ayuのテレビ出演記録だけは貴重な記録だし、今後おいそれとは再放送されない類のものと思われるので、連休を使ってDVDに移してみることにしました。
実をいうと何が入っているかもわからない状態だったのでわくわくしながらダビングを開始したのですが、期待通りレアなものがたくさん出てきました。
ちょうど1999年から2000年頃、ayuがデビューして2年目から3年目あたりの映像です。
■『アートの遺伝子Z 〜浜崎あゆみの遺伝子はピノキオだった』
昔(2000年ごろ)『アートの遺伝子Z』という番組があったのをご存知でしょうか?
日本テレビの深夜枠だったので知名度はかなり低いと思いますが、第18回ATP賞(社団法人全日本テレビ番組製作社連盟主催でディレクタやプロデューサが自分たちで優れた作品を選ぶ賞)を受賞しています。
いろいろな社会現象、文化現象を「遺伝子」というキーワードで半ば強引に理屈をつけて解き明かそうという非常に斬新な(別の表現では奇抜な)趣向の番組で、テーマによってはこじつけが過ぎてお話にもならなかったりします。
この番組の第9回でayuが取り上げられたのですが、サブタイトル曰く「浜崎あゆみの遺伝子はピノキオだった」。
内容はというと、「二面性」「矛盾と葛藤」「自分探しの旅」という言葉をキーワードにして、ピノキオ、中世の男性の女声歌唱カストラート、石川啄木のローマ字日記などを敷衍し、ayuの人気の本質に迫ろうという野心作です。
■第一のキーワードは「二面性」
まずayuが人を惹きつける大きな理由の一つである、あの大きな瞳について論じられます。
なぜ人は大きな瞳に憧れるのか?
それは人間や動物が喜びの感情を表現するときに瞳孔を開くことと関連しているとします。
つまり大きな瞳は大きな喜びにつながっているというわけです。
しかしそれと同時に大きな瞳は畏怖の念、畏敬の念をも喚起します。
それは生物の擬態に目をかたどったものがあったりカラスが目玉の風船を恐れたりという点に如実に現れています。
喜びと恐れが合体するとそこに宗教が生まれます。
つまりayuのまなざしは喜びと畏怖の相反する二面から、大日如来にも通じるオーラを放ち、それがカリスマとして人々を惹きつけるというわけです。
「かわいい」と「怖い」、「光」と「影」、「白ayu」と「黒ayu」のCDジャケット、ayuを見つめるもうひとりのayu、……など、ayuを取り巻くさまざまな「二面性」。
これがayuを読み解くキーワードになると番組は主張します。
■「ノンビブラート唱法」から「カストラート」へ
番組は次にayuの歌唱について取り上げます。
ayuの歌唱はいわゆる「ノンビブラート唱法」に属します。
つまり演歌などのように声を一定周期で震わせるのではなく、ストレートに声を響かせる歌い方で、教会音楽、賛美歌で多用されることからもわかるように、この唱法は相手に自分の心をストレートに訴えかけるのに適した歌い方です。
これがayuの詞とあいまって人々の心に大きな感動を呼び起こすと考えられます。
さて、教会音楽が出てきたところで番組は次に中世ヨーロッパの教会音楽の世界で珍重された「カストラート」という存在に目を向けます。
「カストラート」とは男性であるが女性のような高音域の歌声を聞かせる歌い手のことで、たいていの場合、声変わりが起きないように、男性器(睾丸)を取り去り男性ホルモンの分泌を抑えてしまう処置を施されるため、成人男子としていろいろな面で不都合が生じがちだったようです。つまり、カストラートは名実ともに神に、教会に、教会音楽に身を捧げた存在だったわけです。
このカストラートとayuの類似性を次に番組は主張します。
カストラートは男性でも女性でもない存在。その間で自己は引き裂かれ、奉職者としての名誉と俗世からの好奇な視線との板ばさみにもがき苦しみます。
そしてその、自分とは何者かを模索する心の叫び、苦悩が、どこまでも澄み切ったあの歌声を磨き上げたともいえます。
ここでのキーワードは「自分探し」。
あのピノキオの冒険旅行もまさに本当の人間になるための「自分探し」の旅といえます。
■石川啄木「ローマ字日記」へ
「二面性」と「自分探し」という二つのキーワードが出たところで、番組はさらなる展開を見せます。
ayuの分析は次に言葉に向けられます。
ayuの詞には基本的に日本語以外の表現は使われません。
(2000年当時の話です。ご存知の通り、最近は海外進出を睨んでか、必ずしもそのような制限を自らに課していません)
これは伝えたいことをできるだけ的確に伝えたいというayuのこだわりによるものと考えられます。
ところがその一方で、作品のタイトルには一貫して英語が使われています。
タイトルだけで変な先入観、わかったつもりになられては困るという意思の現れだと思われますが、ここにも例の二面性が顔を覗かせています。
さらに込み入ったことに、ほとんどのタイトルが英語の中で、まれにローマ字タイトルが混ざっています。
たとえば初期の「Hana」(=花。本来なら「Flower」となるべき)、そしてその後の「kanariya」(本来なら「Canary」?)など。
このような多重の二面性がアーティストとしてのayuの奥深さ、神秘性を増す効果を醸し出すことになります。
話が横道に逸れそうですが、ayuが日本語でも英語でもないどっちつかずのローマ字を選んだことに番組は大いなる興味を寄せます。
番組ではここで、日記文学の最高峰とも言われる、かの歌人石川啄木の『ローマ字日記』へと話が展開していきます。
石川啄木は自らのどうしようもない欲望のはけ口を日記に求め、内面の赤裸々な告白をしています。
しかしそれを妻には見せたくないということで、暗号の一種としてローマ字を用いて日記をしたためました。
番組はこのような芸術家としての自尊心、社会人としての自制心と生物としての性欲はじめさまざまな欲望の間で揺れ動く芸術家の葛藤と、それを表白しなくてはならぬという芸術家の悲しい性(さが)とを、ayuにも見ます。
ローマ字の使用は、自分という存在の抜き差しならぬ矛盾と葛藤を表現するために必要だったというわけです。
こうしてayuを読み解く3番目のキーワード「矛盾と葛藤」が現れました。
■そしてピノキオへ
ayuは歌手になる前のアイドル女優の時代に、本来あるべき自分は今の自分ではないと居心地の悪さを感じながら芸能活動を続けていました。
アイドル女優という仕事は、有り余る表現への渇望を満たすものではなく、彼女は「操り人形」として生きるしかありませんでした。
そう、まさにピノキオです。
ピノキオが本当の人間になるために自分探しの旅に出たように、ayuも苦悩の末、いったん引退します。そのときから、ayu本人とアーティスト「浜崎あゆみ」という二面性を抱えて、険しい道のりを歩み始めます。
番組は最後にこう締めます。
<< 人形のピノキオは旅の中で必死に努力してついに人間として生まれ変わることができました。
ayuの道のりは本当の自分を探し続ける苦悩の旅。
すでにカリスマと呼ばれてしまった22歳(当時)の若きアーティストはこの先どこに向かうのか。
それは恐ろしく孤独で悲壮な決意に満ちた旅に違いありません。>>
このようにして、放送当時、日の出の勢いで躍進中の新進アーティスト浜崎あゆみについて、彼女が単なるアイドルではないこと、その輝かしい躍進の陰に深い暗黒の淵がほの見え、それが多くの人々に支持を受ける理由のひとつになっていることをこの番組では効果的に示しています。
■特別な存在としての浜崎あゆみ
こうやって当時の放送を振り返ってみると、あの当時にこのような考察を行い得た番組スタッフ(プロデューサだろうか?)はよほどayuをお気に入りだったのだろうなと感心します。
当時この番組を見たとき私が感じたのは、この番組を作ったのが実は自分ではなかろうか?というあり得ない妄想でした。それほどこの番組の作り方は当時の私のayuに対する心情および分析とマッチするものだったのです。
そして改めてこの番組を見て、デビューしてそれほどたっていないayuを特別な存在として認識し、こうして応援サイトまでつくった私の判断が決して偶然ではなく必然であり間違っていなかったということが確認できた。
■その他の掘り出し物
過去のVHSには嬉しいことに、このようなお宝がいくつもころがっていました。
たとえば、初めてayuを本格的にそして正当に評価した伝説の番組『スーパーテレビ情報最前線 「浜崎あゆみ−光と影」』。
これは後に続編が放送され、そちらの方はリアルタイムで見た方も多いだろうが(YouTubeにもアップされている)、この2000年当時の番組はayuのファン層を一気に広げたとされています。
また、あのB'zの「いつかのメリークリスマス」をB'z本人よりも自分のものとして熱唱した、NHKポップジャムの1999年クリスマス特番。
さらには珍しく「immmature」を歌った1999年から2000年の年明けのCDTVスペシャルなどなど。
こんなことを書くときっと、ダビングさせてほしいという依頼がたくさん舞いこむことが予想されますが、残念ながらそれに応えることはできません。だったらヨダレを誘うようなことは書くなよと言われそうですが、ごめんなさい。悪しからずご了承ください。
■知的所有権の今後
この際なのでちょっとひとこと。
私は個人的には現在の著作権法のやり方に反対の立場です。
もちろんアーティストなど知の創造者の知的所有権の保護は必要です。
しかし現在のやり方は商業主義に非常に偏ったものになっていると感じます。
芸術は自由に鑑賞できるのが本来のあり方であり、知的所有権の保護はそういう個人の自由な活用をできるだけ妨げない形で行われるべきだと思うのですが、今の制度はどちらかというと知的創造者本人よりも商品提供者の権利の方を保護しているように思われます。
ではどんな形だったらそういう理想が実現されるのかと問われると具体的な答えはまだ出せません。
しかし、1000年後を覗いてみたらきっといまとは全く別の知的所有権保護手段がとられ、いまの制度がいかに馬鹿げたものだったかが火を見るよりも明らかになっているものと予想します。
このあたりの話は簡単にはまとめられないので、また別の機会に論じさせていただきたいと思います。
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この記事へのコメント
1. Posted by あゆが好きかな?
2007年05月29日 22:22
2. Posted by あゆ好きかな?
2007年05月29日 22:54
貴方の考え全てには賛同出来ないけど、一部は貴方と同じ一部は違う、まぁ人として当たり前かな?でも貴方の考え、話は面白いです、簡単に言いすぎかな?あゆに対しても同じです、あゆ自身、人としてのあゆなんか、何にも知らないって思うけど、その歌には、自分の感情を呼ぶものがある。貴方の話に対しても、貴方自身を自分は知らないけど、その考え、感じ方には、共感や反発など、感情を呼ぶものがある。文章も歌詞
3. Posted by あゆ好きかな?
2007年05月29日 23:03



















