ayuのピリ辛いため
2007年05月24日
古いVHSから…TV番組『アートの遺伝子Z』その他
最近はTVドラマなどはもっぱらDVDレコーダに録画して、後から休日などに視聴しているわけですが、保存したいときは当然のことながらDVDに焼いています。
ただ過去にVHSテープで撮り貯めていたものも結構あって、その取り扱いには誰しも苦慮していることと思います。
私の場合、ほとんどは思い切って捨てているのですが、ayuのテレビ出演記録だけは貴重な記録だし、今後おいそれとは再放送されない類のものと思われるので、連休を使ってDVDに移してみることにしました。
実をいうと何が入っているかもわからない状態だったのでわくわくしながらダビングを開始したのですが、期待通りレアなものがたくさん出てきました。
ちょうど1999年から2000年頃、ayuがデビューして2年目から3年目あたりの映像です。
■『アートの遺伝子Z 〜浜崎あゆみの遺伝子はピノキオだった』
昔(2000年ごろ)『アートの遺伝子Z』という番組があったのをご存知でしょうか?
日本テレビの深夜枠だったので知名度はかなり低いと思いますが、第18回ATP賞(社団法人全日本テレビ番組製作社連盟主催でディレクタやプロデューサが自分たちで優れた作品を選ぶ賞)を受賞しています。
いろいろな社会現象、文化現象を「遺伝子」というキーワードで半ば強引に理屈をつけて解き明かそうという非常に斬新な(別の表現では奇抜な)趣向の番組で、テーマによってはこじつけが過ぎてお話にもならなかったりします。
この番組の第9回でayuが取り上げられたのですが、サブタイトル曰く「浜崎あゆみの遺伝子はピノキオだった」。
内容はというと、「二面性」「矛盾と葛藤」「自分探しの旅」という言葉をキーワードにして、ピノキオ、中世の男性の女声歌唱カストラート、石川啄木のローマ字日記などを敷衍し、ayuの人気の本質に迫ろうという野心作です。
■第一のキーワードは「二面性」
まずayuが人を惹きつける大きな理由の一つである、あの大きな瞳について論じられます。
なぜ人は大きな瞳に憧れるのか?
それは人間や動物が喜びの感情を表現するときに瞳孔を開くことと関連しているとします。
つまり大きな瞳は大きな喜びにつながっているというわけです。
しかしそれと同時に大きな瞳は畏怖の念、畏敬の念をも喚起します。
それは生物の擬態に目をかたどったものがあったりカラスが目玉の風船を恐れたりという点に如実に現れています。
喜びと恐れが合体するとそこに宗教が生まれます。
つまりayuのまなざしは喜びと畏怖の相反する二面から、大日如来にも通じるオーラを放ち、それがカリスマとして人々を惹きつけるというわけです。
「かわいい」と「怖い」、「光」と「影」、「白ayu」と「黒ayu」のCDジャケット、ayuを見つめるもうひとりのayu、……など、ayuを取り巻くさまざまな「二面性」。
これがayuを読み解くキーワードになると番組は主張します。
■「ノンビブラート唱法」から「カストラート」へ
番組は次にayuの歌唱について取り上げます。
ayuの歌唱はいわゆる「ノンビブラート唱法」に属します。
つまり演歌などのように声を一定周期で震わせるのではなく、ストレートに声を響かせる歌い方で、教会音楽、賛美歌で多用されることからもわかるように、この唱法は相手に自分の心をストレートに訴えかけるのに適した歌い方です。
これがayuの詞とあいまって人々の心に大きな感動を呼び起こすと考えられます。
さて、教会音楽が出てきたところで番組は次に中世ヨーロッパの教会音楽の世界で珍重された「カストラート」という存在に目を向けます。
「カストラート」とは男性であるが女性のような高音域の歌声を聞かせる歌い手のことで、たいていの場合、声変わりが起きないように、男性器(睾丸)を取り去り男性ホルモンの分泌を抑えてしまう処置を施されるため、成人男子としていろいろな面で不都合が生じがちだったようです。つまり、カストラートは名実ともに神に、教会に、教会音楽に身を捧げた存在だったわけです。
このカストラートとayuの類似性を次に番組は主張します。
カストラートは男性でも女性でもない存在。その間で自己は引き裂かれ、奉職者としての名誉と俗世からの好奇な視線との板ばさみにもがき苦しみます。
そしてその、自分とは何者かを模索する心の叫び、苦悩が、どこまでも澄み切ったあの歌声を磨き上げたともいえます。
ここでのキーワードは「自分探し」。
あのピノキオの冒険旅行もまさに本当の人間になるための「自分探し」の旅といえます。
■石川啄木「ローマ字日記」へ
「二面性」と「自分探し」という二つのキーワードが出たところで、番組はさらなる展開を見せます。
ayuの分析は次に言葉に向けられます。
ayuの詞には基本的に日本語以外の表現は使われません。
(2000年当時の話です。ご存知の通り、最近は海外進出を睨んでか、必ずしもそのような制限を自らに課していません)
これは伝えたいことをできるだけ的確に伝えたいというayuのこだわりによるものと考えられます。
ところがその一方で、作品のタイトルには一貫して英語が使われています。
タイトルだけで変な先入観、わかったつもりになられては困るという意思の現れだと思われますが、ここにも例の二面性が顔を覗かせています。
さらに込み入ったことに、ほとんどのタイトルが英語の中で、まれにローマ字タイトルが混ざっています。
たとえば初期の「Hana」(=花。本来なら「Flower」となるべき)、そしてその後の「kanariya」(本来なら「Canary」?)など。
このような多重の二面性がアーティストとしてのayuの奥深さ、神秘性を増す効果を醸し出すことになります。
話が横道に逸れそうですが、ayuが日本語でも英語でもないどっちつかずのローマ字を選んだことに番組は大いなる興味を寄せます。
番組ではここで、日記文学の最高峰とも言われる、かの歌人石川啄木の『ローマ字日記』へと話が展開していきます。
石川啄木は自らのどうしようもない欲望のはけ口を日記に求め、内面の赤裸々な告白をしています。
しかしそれを妻には見せたくないということで、暗号の一種としてローマ字を用いて日記をしたためました。
番組はこのような芸術家としての自尊心、社会人としての自制心と生物としての性欲はじめさまざまな欲望の間で揺れ動く芸術家の葛藤と、それを表白しなくてはならぬという芸術家の悲しい性(さが)とを、ayuにも見ます。
ローマ字の使用は、自分という存在の抜き差しならぬ矛盾と葛藤を表現するために必要だったというわけです。
こうしてayuを読み解く3番目のキーワード「矛盾と葛藤」が現れました。
■そしてピノキオへ
ayuは歌手になる前のアイドル女優の時代に、本来あるべき自分は今の自分ではないと居心地の悪さを感じながら芸能活動を続けていました。
アイドル女優という仕事は、有り余る表現への渇望を満たすものではなく、彼女は「操り人形」として生きるしかありませんでした。
そう、まさにピノキオです。
ピノキオが本当の人間になるために自分探しの旅に出たように、ayuも苦悩の末、いったん引退します。そのときから、ayu本人とアーティスト「浜崎あゆみ」という二面性を抱えて、険しい道のりを歩み始めます。
番組は最後にこう締めます。
<< 人形のピノキオは旅の中で必死に努力してついに人間として生まれ変わることができました。
ayuの道のりは本当の自分を探し続ける苦悩の旅。
すでにカリスマと呼ばれてしまった22歳(当時)の若きアーティストはこの先どこに向かうのか。
それは恐ろしく孤独で悲壮な決意に満ちた旅に違いありません。>>
このようにして、放送当時、日の出の勢いで躍進中の新進アーティスト浜崎あゆみについて、彼女が単なるアイドルではないこと、その輝かしい躍進の陰に深い暗黒の淵がほの見え、それが多くの人々に支持を受ける理由のひとつになっていることをこの番組では効果的に示しています。
■特別な存在としての浜崎あゆみ
こうやって当時の放送を振り返ってみると、あの当時にこのような考察を行い得た番組スタッフ(プロデューサだろうか?)はよほどayuをお気に入りだったのだろうなと感心します。
当時この番組を見たとき私が感じたのは、この番組を作ったのが実は自分ではなかろうか?というあり得ない妄想でした。それほどこの番組の作り方は当時の私のayuに対する心情および分析とマッチするものだったのです。
そして改めてこの番組を見て、デビューしてそれほどたっていないayuを特別な存在として認識し、こうして応援サイトまでつくった私の判断が決して偶然ではなく必然であり間違っていなかったということが確認できた。
■その他の掘り出し物
過去のVHSには嬉しいことに、このようなお宝がいくつもころがっていました。
たとえば、初めてayuを本格的にそして正当に評価した伝説の番組『スーパーテレビ情報最前線 「浜崎あゆみ−光と影」』。
これは後に続編が放送され、そちらの方はリアルタイムで見た方も多いだろうが(YouTubeにもアップされている)、この2000年当時の番組はayuのファン層を一気に広げたとされています。
また、あのB'zの「いつかのメリークリスマス」をB'z本人よりも自分のものとして熱唱した、NHKポップジャムの1999年クリスマス特番。
さらには珍しく「immmature」を歌った1999年から2000年の年明けのCDTVスペシャルなどなど。
こんなことを書くときっと、ダビングさせてほしいという依頼がたくさん舞いこむことが予想されますが、残念ながらそれに応えることはできません。だったらヨダレを誘うようなことは書くなよと言われそうですが、ごめんなさい。悪しからずご了承ください。
■知的所有権の今後
この際なのでちょっとひとこと。
私は個人的には現在の著作権法のやり方に反対の立場です。
もちろんアーティストなど知の創造者の知的所有権の保護は必要です。
しかし現在のやり方は商業主義に非常に偏ったものになっていると感じます。
芸術は自由に鑑賞できるのが本来のあり方であり、知的所有権の保護はそういう個人の自由な活用をできるだけ妨げない形で行われるべきだと思うのですが、今の制度はどちらかというと知的創造者本人よりも商品提供者の権利の方を保護しているように思われます。
ではどんな形だったらそういう理想が実現されるのかと問われると具体的な答えはまだ出せません。
しかし、1000年後を覗いてみたらきっといまとは全く別の知的所有権保護手段がとられ、いまの制度がいかに馬鹿げたものだったかが火を見るよりも明らかになっているものと予想します。
このあたりの話は簡単にはまとめられないので、また別の機会に論じさせていただきたいと思います。
ただ過去にVHSテープで撮り貯めていたものも結構あって、その取り扱いには誰しも苦慮していることと思います。
私の場合、ほとんどは思い切って捨てているのですが、ayuのテレビ出演記録だけは貴重な記録だし、今後おいそれとは再放送されない類のものと思われるので、連休を使ってDVDに移してみることにしました。
実をいうと何が入っているかもわからない状態だったのでわくわくしながらダビングを開始したのですが、期待通りレアなものがたくさん出てきました。
ちょうど1999年から2000年頃、ayuがデビューして2年目から3年目あたりの映像です。
■『アートの遺伝子Z 〜浜崎あゆみの遺伝子はピノキオだった』
昔(2000年ごろ)『アートの遺伝子Z』という番組があったのをご存知でしょうか?
日本テレビの深夜枠だったので知名度はかなり低いと思いますが、第18回ATP賞(社団法人全日本テレビ番組製作社連盟主催でディレクタやプロデューサが自分たちで優れた作品を選ぶ賞)を受賞しています。
いろいろな社会現象、文化現象を「遺伝子」というキーワードで半ば強引に理屈をつけて解き明かそうという非常に斬新な(別の表現では奇抜な)趣向の番組で、テーマによってはこじつけが過ぎてお話にもならなかったりします。
この番組の第9回でayuが取り上げられたのですが、サブタイトル曰く「浜崎あゆみの遺伝子はピノキオだった」。
内容はというと、「二面性」「矛盾と葛藤」「自分探しの旅」という言葉をキーワードにして、ピノキオ、中世の男性の女声歌唱カストラート、石川啄木のローマ字日記などを敷衍し、ayuの人気の本質に迫ろうという野心作です。
■第一のキーワードは「二面性」
まずayuが人を惹きつける大きな理由の一つである、あの大きな瞳について論じられます。
なぜ人は大きな瞳に憧れるのか?
それは人間や動物が喜びの感情を表現するときに瞳孔を開くことと関連しているとします。
つまり大きな瞳は大きな喜びにつながっているというわけです。
しかしそれと同時に大きな瞳は畏怖の念、畏敬の念をも喚起します。
それは生物の擬態に目をかたどったものがあったりカラスが目玉の風船を恐れたりという点に如実に現れています。
喜びと恐れが合体するとそこに宗教が生まれます。
つまりayuのまなざしは喜びと畏怖の相反する二面から、大日如来にも通じるオーラを放ち、それがカリスマとして人々を惹きつけるというわけです。
「かわいい」と「怖い」、「光」と「影」、「白ayu」と「黒ayu」のCDジャケット、ayuを見つめるもうひとりのayu、……など、ayuを取り巻くさまざまな「二面性」。
これがayuを読み解くキーワードになると番組は主張します。
■「ノンビブラート唱法」から「カストラート」へ
番組は次にayuの歌唱について取り上げます。
ayuの歌唱はいわゆる「ノンビブラート唱法」に属します。
つまり演歌などのように声を一定周期で震わせるのではなく、ストレートに声を響かせる歌い方で、教会音楽、賛美歌で多用されることからもわかるように、この唱法は相手に自分の心をストレートに訴えかけるのに適した歌い方です。
これがayuの詞とあいまって人々の心に大きな感動を呼び起こすと考えられます。
さて、教会音楽が出てきたところで番組は次に中世ヨーロッパの教会音楽の世界で珍重された「カストラート」という存在に目を向けます。
「カストラート」とは男性であるが女性のような高音域の歌声を聞かせる歌い手のことで、たいていの場合、声変わりが起きないように、男性器(睾丸)を取り去り男性ホルモンの分泌を抑えてしまう処置を施されるため、成人男子としていろいろな面で不都合が生じがちだったようです。つまり、カストラートは名実ともに神に、教会に、教会音楽に身を捧げた存在だったわけです。
このカストラートとayuの類似性を次に番組は主張します。
カストラートは男性でも女性でもない存在。その間で自己は引き裂かれ、奉職者としての名誉と俗世からの好奇な視線との板ばさみにもがき苦しみます。
そしてその、自分とは何者かを模索する心の叫び、苦悩が、どこまでも澄み切ったあの歌声を磨き上げたともいえます。
ここでのキーワードは「自分探し」。
あのピノキオの冒険旅行もまさに本当の人間になるための「自分探し」の旅といえます。
■石川啄木「ローマ字日記」へ
「二面性」と「自分探し」という二つのキーワードが出たところで、番組はさらなる展開を見せます。
ayuの分析は次に言葉に向けられます。
ayuの詞には基本的に日本語以外の表現は使われません。
(2000年当時の話です。ご存知の通り、最近は海外進出を睨んでか、必ずしもそのような制限を自らに課していません)
これは伝えたいことをできるだけ的確に伝えたいというayuのこだわりによるものと考えられます。
ところがその一方で、作品のタイトルには一貫して英語が使われています。
タイトルだけで変な先入観、わかったつもりになられては困るという意思の現れだと思われますが、ここにも例の二面性が顔を覗かせています。
さらに込み入ったことに、ほとんどのタイトルが英語の中で、まれにローマ字タイトルが混ざっています。
たとえば初期の「Hana」(=花。本来なら「Flower」となるべき)、そしてその後の「kanariya」(本来なら「Canary」?)など。
このような多重の二面性がアーティストとしてのayuの奥深さ、神秘性を増す効果を醸し出すことになります。
話が横道に逸れそうですが、ayuが日本語でも英語でもないどっちつかずのローマ字を選んだことに番組は大いなる興味を寄せます。
番組ではここで、日記文学の最高峰とも言われる、かの歌人石川啄木の『ローマ字日記』へと話が展開していきます。
石川啄木は自らのどうしようもない欲望のはけ口を日記に求め、内面の赤裸々な告白をしています。
しかしそれを妻には見せたくないということで、暗号の一種としてローマ字を用いて日記をしたためました。
番組はこのような芸術家としての自尊心、社会人としての自制心と生物としての性欲はじめさまざまな欲望の間で揺れ動く芸術家の葛藤と、それを表白しなくてはならぬという芸術家の悲しい性(さが)とを、ayuにも見ます。
ローマ字の使用は、自分という存在の抜き差しならぬ矛盾と葛藤を表現するために必要だったというわけです。
こうしてayuを読み解く3番目のキーワード「矛盾と葛藤」が現れました。
■そしてピノキオへ
ayuは歌手になる前のアイドル女優の時代に、本来あるべき自分は今の自分ではないと居心地の悪さを感じながら芸能活動を続けていました。
アイドル女優という仕事は、有り余る表現への渇望を満たすものではなく、彼女は「操り人形」として生きるしかありませんでした。
そう、まさにピノキオです。
ピノキオが本当の人間になるために自分探しの旅に出たように、ayuも苦悩の末、いったん引退します。そのときから、ayu本人とアーティスト「浜崎あゆみ」という二面性を抱えて、険しい道のりを歩み始めます。
番組は最後にこう締めます。
<< 人形のピノキオは旅の中で必死に努力してついに人間として生まれ変わることができました。
ayuの道のりは本当の自分を探し続ける苦悩の旅。
すでにカリスマと呼ばれてしまった22歳(当時)の若きアーティストはこの先どこに向かうのか。
それは恐ろしく孤独で悲壮な決意に満ちた旅に違いありません。>>
このようにして、放送当時、日の出の勢いで躍進中の新進アーティスト浜崎あゆみについて、彼女が単なるアイドルではないこと、その輝かしい躍進の陰に深い暗黒の淵がほの見え、それが多くの人々に支持を受ける理由のひとつになっていることをこの番組では効果的に示しています。
■特別な存在としての浜崎あゆみ
こうやって当時の放送を振り返ってみると、あの当時にこのような考察を行い得た番組スタッフ(プロデューサだろうか?)はよほどayuをお気に入りだったのだろうなと感心します。
当時この番組を見たとき私が感じたのは、この番組を作ったのが実は自分ではなかろうか?というあり得ない妄想でした。それほどこの番組の作り方は当時の私のayuに対する心情および分析とマッチするものだったのです。
そして改めてこの番組を見て、デビューしてそれほどたっていないayuを特別な存在として認識し、こうして応援サイトまでつくった私の判断が決して偶然ではなく必然であり間違っていなかったということが確認できた。
■その他の掘り出し物
過去のVHSには嬉しいことに、このようなお宝がいくつもころがっていました。
たとえば、初めてayuを本格的にそして正当に評価した伝説の番組『スーパーテレビ情報最前線 「浜崎あゆみ−光と影」』。
これは後に続編が放送され、そちらの方はリアルタイムで見た方も多いだろうが(YouTubeにもアップされている)、この2000年当時の番組はayuのファン層を一気に広げたとされています。
また、あのB'zの「いつかのメリークリスマス」をB'z本人よりも自分のものとして熱唱した、NHKポップジャムの1999年クリスマス特番。
さらには珍しく「immmature」を歌った1999年から2000年の年明けのCDTVスペシャルなどなど。
こんなことを書くときっと、ダビングさせてほしいという依頼がたくさん舞いこむことが予想されますが、残念ながらそれに応えることはできません。だったらヨダレを誘うようなことは書くなよと言われそうですが、ごめんなさい。悪しからずご了承ください。
■知的所有権の今後
この際なのでちょっとひとこと。
私は個人的には現在の著作権法のやり方に反対の立場です。
もちろんアーティストなど知の創造者の知的所有権の保護は必要です。
しかし現在のやり方は商業主義に非常に偏ったものになっていると感じます。
芸術は自由に鑑賞できるのが本来のあり方であり、知的所有権の保護はそういう個人の自由な活用をできるだけ妨げない形で行われるべきだと思うのですが、今の制度はどちらかというと知的創造者本人よりも商品提供者の権利の方を保護しているように思われます。
ではどんな形だったらそういう理想が実現されるのかと問われると具体的な答えはまだ出せません。
しかし、1000年後を覗いてみたらきっといまとは全く別の知的所有権保護手段がとられ、いまの制度がいかに馬鹿げたものだったかが火を見るよりも明らかになっているものと予想します。
このあたりの話は簡単にはまとめられないので、また別の機会に論じさせていただきたいと思います。
2006年10月16日
Mステスペシャルの「JEWEL」
ここ数年のayuについてじょいじょいの失望感を敢えて表明させていただいた直後のTV生出演。
じょいじょいの感想を聞きたいと思う人もいるのではないかと思い、ごく簡単ですが感想を。
ずっと前からこのサイトを知っている人たちにはもうわかっているかもしれませんが、なかなか良い作品だと思いました。久々にゾクゾクッと来ました。
作曲は湯汲哲也さんですね。 最近のayuの曲の中では「Memorial Address」なんか大好きで、湯汲さんの曲作りには波長が合っています。
詞はここ数年の年末にかけてリリースする「王道バラード」の一環といっていいでしょう。そしてこれが今を生きるayuの一番言いたいことでもあるのでしょう。
恋が成就するところから始まる、未来への大きな希望とかすかな不安。ともに生きていこうとする者へのとても穏やかな愛しさと慈しみの発露。
ただ、個人的には残念ながらこの主題に感情移入できない自分がいます。
どうしても、恋の成就する前の、あるいは恋の真っ最中の、あるいは生きることに不器用な人間の、揺れ動き、不安にまみれる、そんな感情をうまく代弁してくれることを期待してしまいます。
それはもはや無い物ねだりであり、その先に進んでしまったayuに期待すべきものではないというのは百も承知なのですが…
とはいえ、良いものは良い、ということで、久しぶりに満足したじょいじょいでした。
(声や歌い方の不満はそのままですが、この作品はどちらかといえばそれが目立たない方ですよね)
じょいじょいの感想を聞きたいと思う人もいるのではないかと思い、ごく簡単ですが感想を。
ずっと前からこのサイトを知っている人たちにはもうわかっているかもしれませんが、なかなか良い作品だと思いました。久々にゾクゾクッと来ました。
作曲は湯汲哲也さんですね。 最近のayuの曲の中では「Memorial Address」なんか大好きで、湯汲さんの曲作りには波長が合っています。
詞はここ数年の年末にかけてリリースする「王道バラード」の一環といっていいでしょう。そしてこれが今を生きるayuの一番言いたいことでもあるのでしょう。
恋が成就するところから始まる、未来への大きな希望とかすかな不安。ともに生きていこうとする者へのとても穏やかな愛しさと慈しみの発露。
ただ、個人的には残念ながらこの主題に感情移入できない自分がいます。
どうしても、恋の成就する前の、あるいは恋の真っ最中の、あるいは生きることに不器用な人間の、揺れ動き、不安にまみれる、そんな感情をうまく代弁してくれることを期待してしまいます。
それはもはや無い物ねだりであり、その先に進んでしまったayuに期待すべきものではないというのは百も承知なのですが…
とはいえ、良いものは良い、ということで、久しぶりに満足したじょいじょいでした。
(声や歌い方の不満はそのままですが、この作品はどちらかといえばそれが目立たない方ですよね)
2006年09月25日
この数年間言いたくて言えなかったこと
このサイトの最大の売りと自負していた「ayuのピリ辛いため」の更新が滞って4年くらいになる。
これくらい長きにわたるともはや「日々忙しいから」というのは書けない理由にはならないだろう。
懸命な読者であれば、そこにもっと根本的な問題が横たわっていることに気づいているはずだ。
言いたいことは山ほどある。しかしそのほとんどすべてはayuに対する失望であり批判であり「ダメ出し」になってしまう。
しかもそれらは多分に感覚的なもの、感性的なもの、きわめて個人的なものになるので、おそらく熱狂的なayuファンから批判や抗議を浴び、結論の出ない論争へとつながるだろう。
「ピリ辛」だからこそウィットに富み、明日への希望を内包しているのだが、「超激辛」では痛みだけを伴いそこに未来は見えない。
しかし何らか声を発しなければならないことも事実だろう。ayuの小さくないファンサイトの主宰者として。
だから今日は言いたかったことの数十分の一でも言わせてもらおうと思う。
ただし反論等は一切受け付けるつもりはない。不毛の議論と「〜だったらファンサイトなんてやめてしまえ」という結論しか導かないだろうから。
前置きが長くなったが本題に入ろう。
ayuは「パフォーマ」として成長した。これは認める。
しかし「ミュージシャン」としては結局十分に成長できなかった。(現時点での「過去形」「現在完了形」であり今後の成長の可能性を否定するものではない)
そして私がayuに望んでいたのは「ミュージシャン」として超一流になってくれること、あるいはそうあるべく努力してくれることだった。
これが私の失望の要約になる。
ここで「ミュージシャン」という言葉の意味が重要になってくる。しかし私は理論家ではないし、ピリ辛いためは学術論文でもなんでもなく、感性の赴くままに書いているので、ちゃんとした定義などできそうもない。
ただあくまで感性的に定義すると、ayuはボーカルとして「主戦場」に挑んでいるので、ayuに関していえば、「ミュージシャン」とは、「歌詞」を「楽曲」に乗せ、「ボーカル」という楽器をメインパートにして、伝えたい主張や感動、感性を聴き手に伝え、芸術的な感動を呼び起こす専門家をいう。
ここで重要な評価ポイントは、「歌詞」、「楽曲」、「ボーカル」、「アレンジ」、そして根本にある「伝えたいことそのもの」である。
このうち、「楽曲」と「アレンジ」は今も昔も変わらないと思っている。ayuは初期から比較的潤沢に優秀な作曲家、編曲者を選べる立場にあった。これは多分にMAX松浦氏のおかげであり、売れるようになってからは自らのエイベックスに対する貢献度に応じてたくさんの候補の中から選択できる立場にあったと思われる。
問題は「歌詞」と「伝えたいこと」、そして「ボーカル」になる。
今のayuに切実に「伝えたいこと」はあるのだろうか?
少なくとも私にはそれが感じられない。
強いて挙げるなら、ともに高揚したステージを作り上げる一体感の共有だろうか?
それはまさに「パフォーマ」の特性そのものだ。
しかしそんなものは私の望むものではない。
この伝えたいことの欠落感がそのまま「歌詞」のマンネリ化にもつながる。
ayuを昔から知る者ならたいていが実感しているのがこの「歌詞のマンネリ化」だろう。
以前の歌詞には、その道を志す者を「どきっ」とさせる言葉が随所に散りばめられていた。
それは手垢にまみれていない新鮮な言葉たちであり、しかもそれらは「伝えたいこと」を効果的に伝えることのできる共通言語の役割を見事に果たしていた。
聴き手はその言葉に出会うことで、同じ内的体験を共有するアーティストと巡り会えたことを実感し深く共鳴する。
しかしもはや最近のayuの詞にはそのような「痛いトゲ」だったり「キラリと光る原石」を感じ取ることができない。
昔と同じ主旨の作品なら今でもときどき見受けられる。しかしそこに流れるものは変容してしまっている。もはや昔のような「魂の切実な叫び」は見いだし得ない。
アーティストは変っていくものだ、そしてファンは、変っていくそのときどきのアーティストに付いていく、ひとりひとりのファンは自分がファンになったときのアーティストのままでいて欲しいと思うが、そうやってファンは皆前へ進むアーティストに置きざられていく、という趣旨のことを私はずっと以前にこのピリ辛いためで書いた。
そしてそれは今でも間違いではないし、それがまさにファンとしての私自身にも当てはまっていることも自覚している。
しかし一方で、ayuは単に前進し私を置き去りにしたというに過ぎないのだろうか?という疑問が実はある。
「伝えたいこと」のなくなった「アーティスト」はもはや「アーティスト」ではなく「パフォーマ」に過ぎないだろう。そういう自称「アーティスト」は「アーティスト」からはきっと「アーティスト」仲間とは認められないことになるだろう。ayuがそうではないことを祈るばかりである。
以上、「歌詞」と「伝えたいこと」について述べた。
残りは「ボーカル」になる。
私は「ボーカル」は非常に重要な要素だと考える。
音楽は広い意味で「心地よい」ものでなければならないというのが私の信念である。「心地よい」という感覚にもかなり幅があるが。
その「アーティスト」が売れるか売れないかのある最低の基本ラインはそのボーカルの「心地よさ」にあると考える。
その「心地よさ」が必ずしも一般的な「歌の旨さ」や「声の良さ」に比例しない難しさはあるが…
何にせよ「ボーカル」のためには「声」という楽器を日々ちゃんと整備し調整するとともに、これは普通の楽器には見られないことだが、よりよいものに改良し成長させることが望まれる。
もちろん、多くの歌手がそうやって日々成長しているとは決していえない現状がJ-POPやJ-ROCKの世界にはあるというのも事実かもしれない。
しかしそんな低次元な通例に流されてしまっていいわけはない。
少数だがちゃんとした「ボーカリスト」は日々精進を重ね、年をとってもきらめきを失わないで私たちファンをずっとファンでいさせてくれている。
ayuにはそういうアーティストの一員になってほしかった。
そしてそのためにayuが超えなければならないハードルは結構高いものがあったと考える。
ayuはデビュー当時から「表現者」としてはある程度天賦の才があったのではないかと思うが、純粋な力量からいうと、声質も声量も歌の旨さもまだまだ初心者同然だったし、もともと喉が弱いという弱点があった。
ayuはある時期から自分のハスキーボイスをむしろ個性と解釈し肯定的にとらえるようになった節がある。ものごとを前向きにとらえるということ自体は良いことなのだが、どうもそれをよくない方向にはき違えてしまった嫌いがある。いやむしろそちらに逃げ込んだのかもしれない。
初期の頃から確かにayuの独特のハスキーボイスはある種の「心地よさ」を内包しており、その魅力はアルバム『LOVEppears』の頃に頂点を迎えたように思う。
しかしそれはハスキーボイスの悪い点をないがしろにしてよいということではなかったはずだ。
ハスキーボイスの良い面を維持しつつ欠点を克服する努力が必要だった。
しかし現実はその頃から始まる過酷なツアーに翻弄されて、ただ声を駄目にし、ハスキーボイスの悪い面だけを残し強調する結果となってしまった。
変容してしまったのは「声質」そのものだけではない。「声質」の変容に伴って、おそらくそれをかばう、あるいはカバーするために変な癖のついた歌い方に陥ってしまった。『LOVEppears』のころまでの素直で直線的な歌い方は影を潜め、奥行きのない薄っぺらな発声に、振幅の大きい一見大家風のしかし冷静に聞けば鼻につくビブラートを駆使するように変っていった。
私の周囲にいる、ファンでもアンチでもない人々はどうも彼女のあの声と歌い方に本能的に近い嫌悪感を抱いているようだ。
「ようだ」と書いたが実は私もそういう部分がある。
残念ながら今の彼女の歌い方ではどんなにすばらしい曲でも、純粋な感動と何度も聞きたいという欲求を多くの人々に喚起することは難しいだろう。
ayuはJ-POPの世界で数々の金字塔を打ち立てた。
それらの多くは今後も破られることがないだろう。
これは否定しようのない事実だし、それはフロックでもトリックでもなく、紛れもなく彼女が超一流のアーティストとして数年間に渡り一般に高く支持された証だと思う。
しかしその名声は純粋に「アーティスト」としてのそれというよりは、ルックスとか、それと透徹した大人の詞の世界とのギャップ感とか、職業人として自分にも他人にも厳しい姿勢を貫き通す潔さなどを含めた総合的な評価といった方が正しいだろう。
ちょうど小泉首相が満足すべき成果を上げていないにもかかわらず支持率はそこそこのものをとっているのに似ているかもしれない。
そして支持率が高いからといって、自分のとった選択肢がすべて正しいんだと正当化し現状に甘んじ、欠点を補ったり長所を伸ばす努力を怠ることは、支持してくれた人々を裏切ることになる。
支持してくれた人々それぞれは必ずしも「すべてが善し」として支持を表明したわけではないのだから。
このままだと遠い将来の人々が「この浜崎あゆみという歌手が当時なぜこれだけの前人未到の記録の数々を作り上げることができたのか、どうしても理解できない」と首をひねっている姿さえ私の脳裏には思い浮かんでくる。
ちょうど天地真理が当時なぜあれほど若者たちに熱狂的に支持されたかが今となっては全く理解できないのと同じように。
私はこのようなファンサイトを経営しているので、もちろん、ayuのCDやDVD、出演するTVや雑誌のほとんどに耳目を通している。しかし、ここ数年間、TV出演時の出来に満足できたことは一度もない。
先日のミュージックステーション20周年スペシャルにayuは出演しなかったが、過去の映像が流れた。それは「Fly High」を歌ったシーンだったが、音程が合わず、声も全く出ておらず、穴があったら入りたい心境だった。それを尻目に他のアーティストたちが凛として歌っているのを見ると、とても悲しい気持ちになった。
aikoが生出演して、花王ハミングCMでおなじみの「瞳」を歌ったが、彼女はまさに「アーティスト」と呼ぶにふさわしい歌いぶりを披露してくれた。
結局のところ、私がいまピリ辛いためを書くとこのような書き込みになってしまう。だからこの4年間くらい、なんだかんだと理由を付けて書くのを控えてきた。
しかし、そのようにだんまりを通しているのにもある種の罪悪感を感じずにはいられなかった。また、この4年間、ayuに改善の兆しが見えることを期待してじっと待っていたということもある。
しかし、その兆しもどうやら当分見えそうにもない。
それで今日、ayuの誕生日の押し迫ったこの時期に敢えて私の正直な現在の心境を吐露させていただいた。
ただ、これから先もayuを応援し続ける気持ちは全く変らないことも表明しておきたい。もはやayuは自分の家族のようなものなので。
これくらい長きにわたるともはや「日々忙しいから」というのは書けない理由にはならないだろう。
懸命な読者であれば、そこにもっと根本的な問題が横たわっていることに気づいているはずだ。
言いたいことは山ほどある。しかしそのほとんどすべてはayuに対する失望であり批判であり「ダメ出し」になってしまう。
しかもそれらは多分に感覚的なもの、感性的なもの、きわめて個人的なものになるので、おそらく熱狂的なayuファンから批判や抗議を浴び、結論の出ない論争へとつながるだろう。
「ピリ辛」だからこそウィットに富み、明日への希望を内包しているのだが、「超激辛」では痛みだけを伴いそこに未来は見えない。
しかし何らか声を発しなければならないことも事実だろう。ayuの小さくないファンサイトの主宰者として。
だから今日は言いたかったことの数十分の一でも言わせてもらおうと思う。
ただし反論等は一切受け付けるつもりはない。不毛の議論と「〜だったらファンサイトなんてやめてしまえ」という結論しか導かないだろうから。
前置きが長くなったが本題に入ろう。
ayuは「パフォーマ」として成長した。これは認める。
しかし「ミュージシャン」としては結局十分に成長できなかった。(現時点での「過去形」「現在完了形」であり今後の成長の可能性を否定するものではない)
そして私がayuに望んでいたのは「ミュージシャン」として超一流になってくれること、あるいはそうあるべく努力してくれることだった。
これが私の失望の要約になる。
ここで「ミュージシャン」という言葉の意味が重要になってくる。しかし私は理論家ではないし、ピリ辛いためは学術論文でもなんでもなく、感性の赴くままに書いているので、ちゃんとした定義などできそうもない。
ただあくまで感性的に定義すると、ayuはボーカルとして「主戦場」に挑んでいるので、ayuに関していえば、「ミュージシャン」とは、「歌詞」を「楽曲」に乗せ、「ボーカル」という楽器をメインパートにして、伝えたい主張や感動、感性を聴き手に伝え、芸術的な感動を呼び起こす専門家をいう。
ここで重要な評価ポイントは、「歌詞」、「楽曲」、「ボーカル」、「アレンジ」、そして根本にある「伝えたいことそのもの」である。
このうち、「楽曲」と「アレンジ」は今も昔も変わらないと思っている。ayuは初期から比較的潤沢に優秀な作曲家、編曲者を選べる立場にあった。これは多分にMAX松浦氏のおかげであり、売れるようになってからは自らのエイベックスに対する貢献度に応じてたくさんの候補の中から選択できる立場にあったと思われる。
問題は「歌詞」と「伝えたいこと」、そして「ボーカル」になる。
今のayuに切実に「伝えたいこと」はあるのだろうか?
少なくとも私にはそれが感じられない。
強いて挙げるなら、ともに高揚したステージを作り上げる一体感の共有だろうか?
それはまさに「パフォーマ」の特性そのものだ。
しかしそんなものは私の望むものではない。
この伝えたいことの欠落感がそのまま「歌詞」のマンネリ化にもつながる。
ayuを昔から知る者ならたいていが実感しているのがこの「歌詞のマンネリ化」だろう。
以前の歌詞には、その道を志す者を「どきっ」とさせる言葉が随所に散りばめられていた。
それは手垢にまみれていない新鮮な言葉たちであり、しかもそれらは「伝えたいこと」を効果的に伝えることのできる共通言語の役割を見事に果たしていた。
聴き手はその言葉に出会うことで、同じ内的体験を共有するアーティストと巡り会えたことを実感し深く共鳴する。
しかしもはや最近のayuの詞にはそのような「痛いトゲ」だったり「キラリと光る原石」を感じ取ることができない。
昔と同じ主旨の作品なら今でもときどき見受けられる。しかしそこに流れるものは変容してしまっている。もはや昔のような「魂の切実な叫び」は見いだし得ない。
アーティストは変っていくものだ、そしてファンは、変っていくそのときどきのアーティストに付いていく、ひとりひとりのファンは自分がファンになったときのアーティストのままでいて欲しいと思うが、そうやってファンは皆前へ進むアーティストに置きざられていく、という趣旨のことを私はずっと以前にこのピリ辛いためで書いた。
そしてそれは今でも間違いではないし、それがまさにファンとしての私自身にも当てはまっていることも自覚している。
しかし一方で、ayuは単に前進し私を置き去りにしたというに過ぎないのだろうか?という疑問が実はある。
「伝えたいこと」のなくなった「アーティスト」はもはや「アーティスト」ではなく「パフォーマ」に過ぎないだろう。そういう自称「アーティスト」は「アーティスト」からはきっと「アーティスト」仲間とは認められないことになるだろう。ayuがそうではないことを祈るばかりである。
以上、「歌詞」と「伝えたいこと」について述べた。
残りは「ボーカル」になる。
私は「ボーカル」は非常に重要な要素だと考える。
音楽は広い意味で「心地よい」ものでなければならないというのが私の信念である。「心地よい」という感覚にもかなり幅があるが。
その「アーティスト」が売れるか売れないかのある最低の基本ラインはそのボーカルの「心地よさ」にあると考える。
その「心地よさ」が必ずしも一般的な「歌の旨さ」や「声の良さ」に比例しない難しさはあるが…
何にせよ「ボーカル」のためには「声」という楽器を日々ちゃんと整備し調整するとともに、これは普通の楽器には見られないことだが、よりよいものに改良し成長させることが望まれる。
もちろん、多くの歌手がそうやって日々成長しているとは決していえない現状がJ-POPやJ-ROCKの世界にはあるというのも事実かもしれない。
しかしそんな低次元な通例に流されてしまっていいわけはない。
少数だがちゃんとした「ボーカリスト」は日々精進を重ね、年をとってもきらめきを失わないで私たちファンをずっとファンでいさせてくれている。
ayuにはそういうアーティストの一員になってほしかった。
そしてそのためにayuが超えなければならないハードルは結構高いものがあったと考える。
ayuはデビュー当時から「表現者」としてはある程度天賦の才があったのではないかと思うが、純粋な力量からいうと、声質も声量も歌の旨さもまだまだ初心者同然だったし、もともと喉が弱いという弱点があった。
ayuはある時期から自分のハスキーボイスをむしろ個性と解釈し肯定的にとらえるようになった節がある。ものごとを前向きにとらえるということ自体は良いことなのだが、どうもそれをよくない方向にはき違えてしまった嫌いがある。いやむしろそちらに逃げ込んだのかもしれない。
初期の頃から確かにayuの独特のハスキーボイスはある種の「心地よさ」を内包しており、その魅力はアルバム『LOVEppears』の頃に頂点を迎えたように思う。
しかしそれはハスキーボイスの悪い点をないがしろにしてよいということではなかったはずだ。
ハスキーボイスの良い面を維持しつつ欠点を克服する努力が必要だった。
しかし現実はその頃から始まる過酷なツアーに翻弄されて、ただ声を駄目にし、ハスキーボイスの悪い面だけを残し強調する結果となってしまった。
変容してしまったのは「声質」そのものだけではない。「声質」の変容に伴って、おそらくそれをかばう、あるいはカバーするために変な癖のついた歌い方に陥ってしまった。『LOVEppears』のころまでの素直で直線的な歌い方は影を潜め、奥行きのない薄っぺらな発声に、振幅の大きい一見大家風のしかし冷静に聞けば鼻につくビブラートを駆使するように変っていった。
私の周囲にいる、ファンでもアンチでもない人々はどうも彼女のあの声と歌い方に本能的に近い嫌悪感を抱いているようだ。
「ようだ」と書いたが実は私もそういう部分がある。
残念ながら今の彼女の歌い方ではどんなにすばらしい曲でも、純粋な感動と何度も聞きたいという欲求を多くの人々に喚起することは難しいだろう。
ayuはJ-POPの世界で数々の金字塔を打ち立てた。
それらの多くは今後も破られることがないだろう。
これは否定しようのない事実だし、それはフロックでもトリックでもなく、紛れもなく彼女が超一流のアーティストとして数年間に渡り一般に高く支持された証だと思う。
しかしその名声は純粋に「アーティスト」としてのそれというよりは、ルックスとか、それと透徹した大人の詞の世界とのギャップ感とか、職業人として自分にも他人にも厳しい姿勢を貫き通す潔さなどを含めた総合的な評価といった方が正しいだろう。
ちょうど小泉首相が満足すべき成果を上げていないにもかかわらず支持率はそこそこのものをとっているのに似ているかもしれない。
そして支持率が高いからといって、自分のとった選択肢がすべて正しいんだと正当化し現状に甘んじ、欠点を補ったり長所を伸ばす努力を怠ることは、支持してくれた人々を裏切ることになる。
支持してくれた人々それぞれは必ずしも「すべてが善し」として支持を表明したわけではないのだから。
このままだと遠い将来の人々が「この浜崎あゆみという歌手が当時なぜこれだけの前人未到の記録の数々を作り上げることができたのか、どうしても理解できない」と首をひねっている姿さえ私の脳裏には思い浮かんでくる。
ちょうど天地真理が当時なぜあれほど若者たちに熱狂的に支持されたかが今となっては全く理解できないのと同じように。
私はこのようなファンサイトを経営しているので、もちろん、ayuのCDやDVD、出演するTVや雑誌のほとんどに耳目を通している。しかし、ここ数年間、TV出演時の出来に満足できたことは一度もない。
先日のミュージックステーション20周年スペシャルにayuは出演しなかったが、過去の映像が流れた。それは「Fly High」を歌ったシーンだったが、音程が合わず、声も全く出ておらず、穴があったら入りたい心境だった。それを尻目に他のアーティストたちが凛として歌っているのを見ると、とても悲しい気持ちになった。
aikoが生出演して、花王ハミングCMでおなじみの「瞳」を歌ったが、彼女はまさに「アーティスト」と呼ぶにふさわしい歌いぶりを披露してくれた。
結局のところ、私がいまピリ辛いためを書くとこのような書き込みになってしまう。だからこの4年間くらい、なんだかんだと理由を付けて書くのを控えてきた。
しかし、そのようにだんまりを通しているのにもある種の罪悪感を感じずにはいられなかった。また、この4年間、ayuに改善の兆しが見えることを期待してじっと待っていたということもある。
しかし、その兆しもどうやら当分見えそうにもない。
それで今日、ayuの誕生日の押し迫ったこの時期に敢えて私の正直な現在の心境を吐露させていただいた。
ただ、これから先もayuを応援し続ける気持ちは全く変らないことも表明しておきたい。もはやayuは自分の家族のようなものなので。
2005年09月13日
いよいよ新曲発売!
久しぶりに発売前から新曲に期待しています。
「HEAVEN」、「Will」
いずれも曲作りの面では申し分なし。といってもまだサビ部分の試聴しかしていませんが。
のちに作曲者が菊池一仁さんとD・A・Iさんだと分かって曲の良さに納得。多くのファンが待ち望んでいた黄金コンビの復活ですね。特に「Will」はとても気に入っています。
歌唱についても、最近の不安の種である厚みのない喉をしめつけるようなかすれ声が目立たないのでほっとしています。少なくとも「アーティストの声ではないだろう」という批判を浴びることはないだろうと思います。
また「HEAVEN」は比較的重い曲調なので歌はさらっと流す方がバランスがとれると思うのですが、この点でも今回は抑制が利いていると思います。
それにしてもayuは作品によって歌い方をかなり変えてくる方ですが、「Will」は知らないで聴くとayuとは思えませんね。
編曲の点からは試聴しかしていないので何とも言い難いですが、「HEAVEN」のPiano Versionは秀逸だと思います。やはり「HEAVEN」のような作品はAcoustic Orchestra Versionとか今回のようなPiano Versionなんかがいいですね。
最後に詞についてはまだ何ともいえません。全体を通しで聴く中で詞を吟味したいと思っています。
まあ、ともあれ、久々に期待感たっぷりのじょいじょいです。
「HEAVEN」、「Will」
いずれも曲作りの面では申し分なし。といってもまだサビ部分の試聴しかしていませんが。
のちに作曲者が菊池一仁さんとD・A・Iさんだと分かって曲の良さに納得。多くのファンが待ち望んでいた黄金コンビの復活ですね。特に「Will」はとても気に入っています。
歌唱についても、最近の不安の種である厚みのない喉をしめつけるようなかすれ声が目立たないのでほっとしています。少なくとも「アーティストの声ではないだろう」という批判を浴びることはないだろうと思います。
また「HEAVEN」は比較的重い曲調なので歌はさらっと流す方がバランスがとれると思うのですが、この点でも今回は抑制が利いていると思います。
それにしてもayuは作品によって歌い方をかなり変えてくる方ですが、「Will」は知らないで聴くとayuとは思えませんね。
編曲の点からは試聴しかしていないので何とも言い難いですが、「HEAVEN」のPiano Versionは秀逸だと思います。やはり「HEAVEN」のような作品はAcoustic Orchestra Versionとか今回のようなPiano Versionなんかがいいですね。
最後に詞についてはまだ何ともいえません。全体を通しで聴く中で詞を吟味したいと思っています。
まあ、ともあれ、久々に期待感たっぷりのじょいじょいです。
2005年04月03日
MY STORY Classical 聴いています
MY STORY Classical 聴いています。
とても完成度が高く、感動的なアルバムに仕上がっています。
これだったら「ファンではない耳の肥えた大人の聴者」にも自信を持って推薦できます。
「浜崎あゆみのアルバムのクラシック風リミックス」ではなく、「オーケストラに浜崎あゆみの詞と歌声を融合させた作品」と言っていいでしょう。
驚いたのはayuのそれぞれの詞のメッセージ性を実に有効に前面に押し出すことができている点です。最近のオリジナル作品にはいまひとつ満足できていなかったのですが、これはまさに佐渡裕さんの功績といっていいでしょう。
特にオリジナルを超えてすばらしいと感じたのは「HAPPY ENDING」と「walking proud」、「HOPE or PAIN」、さらに「GAME」や「Moments」もオリジナルとは異なるテイストで感動を呼び起こしてくれます。ひさしぶりに「ぞくぞく」っという感覚を覚えた気がします。
今日は「ピリ辛」になっていませんが、近況報告の意味も含めて、ごく簡単に感じたところを述べてみました。
とても完成度が高く、感動的なアルバムに仕上がっています。
これだったら「ファンではない耳の肥えた大人の聴者」にも自信を持って推薦できます。
「浜崎あゆみのアルバムのクラシック風リミックス」ではなく、「オーケストラに浜崎あゆみの詞と歌声を融合させた作品」と言っていいでしょう。
驚いたのはayuのそれぞれの詞のメッセージ性を実に有効に前面に押し出すことができている点です。最近のオリジナル作品にはいまひとつ満足できていなかったのですが、これはまさに佐渡裕さんの功績といっていいでしょう。
特にオリジナルを超えてすばらしいと感じたのは「HAPPY ENDING」と「walking proud」、「HOPE or PAIN」、さらに「GAME」や「Moments」もオリジナルとは異なるテイストで感動を呼び起こしてくれます。ひさしぶりに「ぞくぞく」っという感覚を覚えた気がします。
今日は「ピリ辛」になっていませんが、近況報告の意味も含めて、ごく簡単に感じたところを述べてみました。
2002年11月04日
2つの"Trauma"と「リベンジ」
ayuはずっと2つの大きなTraumaを抱えてきたとじょいじょいは思っている。
その2つとは「不幸な家庭」と「女優としての挫折」だ。
この2つのTraumaは陰に陽に現在のayuの行動や決断に影響を与えていると思われる。
ayuの半生に「完成」というものがあるとしたら、それは単に「ソングアーティスト」としての成功によって達成されるのではなく、この2つのTraumaを克服し、「リベンジ」を果たすことができたときに初めて達成するだろうと思ったりもする。
■「不幸な家庭」と人格形成
「不幸な家庭」については、いろいろな場面でayu本人が言及している。(ラジオ「オールナイトニッポン」特番「浜崎あゆみはバカじゃない」、音楽雑誌「ロッキング・オン」、雑誌「Free & Easy」別冊「浜崎共和国」、その他、複数の雑誌のインタビューなど)
まだ物心付くか付かないかのある日の朝、父親が普通に会社へ出勤するように車に乗って出ていく。ayuはそれを眠い目をこすりながらぼんやり窓越しに見るだけだったが、実はそれが父親を見る最後となる。
幸せな日々からのこの突然の不幸は、「teddy bear」の題材としても取り上げられているように、ayuにとって非常に大きな出来事だったようだ。
興味深いのは、ayuがこの出来事を述懐するときに、不思議と自分を捨てていった父親への怒りや不平が感じられないことだ。両親の離婚の原因は結局明かされなかったようだが、本来その一端は父親に向けられていいはずの不満まで、すべて母親への「愛憎」に転嫁されているように見える。
あの寝耳に水の離婚劇も、問題は、父親が突然いなくなったことではなく、父親がいなくなるのをあらかじめ知っていながら、母親がそれを知らせてくれなかったことにあると感じているようだし、その後の生活も、片親だからということが問題なのではなく、母親が父親代わりを演じてくれるどころか、世間並みの母親の役割すら十分に果たしてくれなかった(と少なくともayuには感じられた)ことがayuには我慢ならなかったようだ。
母親でありながら、いつも「女」であることばかりを強調して生きていく母親に、ayuはずっと鬱積したわだかまりを抱いていた。着飾り、若作りをしてしばしば遊びに行く、家にいても母親らしいことはしない、できない、学校に子供のことで呼び出しを食らっても、「お腹が痛い」といって最後の最後ですっぽかし、担任から「お前もあんな親を持ってたいへんだな」と変な同情をされる、近所の同級生の親には「あそこの家と付き合うな」と釘を刺される、男の子に泣かされて帰ったら、「泣いちゃだめだ、やられたらやり返してやれ」と突き放される...
そうやってayuは人見知りのする、ひとり遊びの好きな女の子、協調性に欠け、クラスから浮きがちな生徒になっていったし、その後の社会生活でも事あるごとに閉塞状況に直面することになるが、そうなった原因の幾ばくかを(かなりの部分を)この母親との不幸な家庭のせいと考えていたふしがある。
ただ、ここで念を押しておきたいのは、そんな母親への憎悪だけがayuの心を支配しているわけでは決してないということだ。肉親への愛情と思慕が根底にあり、女手ひとつで世の中を果敢に渡っていった人生の先輩として尊敬もしているに違いない。いや、だからこそ、両親の離婚と母親への不満が深刻な「Trauma」としてayuの心に突き刺さっているともいえる。
「A Song for XX」はまさにその「愛憎」の止むにやまれぬほとばしりであり、「マミー」への赤裸々な告白であり、自分のそれまでの前半生への「レクイエム」といえる。そうやってayuは過去の自分を葬り去り、新たな、それまでの自分とは全く別の自分への一歩を踏み出そうとした。
この新たな旅立ちは、アーティストとしての成功とスタッフの暖かいサポート・理解によって、何とか軌道に乗せることができたようにも見える。しかしそれから2年後、「teddy bear」で再び同じテーマが取り上げられたときayuのTraumaの大きさを改めて実感させられることになる。もちろん、創作はあくまで創作であって、実体験がその作品にどこまで込められているかは本人にしか分からないので、割り引いて考える必要はあるのだが・・・
おそらく、「不幸な家庭」のTraumaを真の意味で解消することは、「幸福な家庭」を作り上げることでしか成し遂げられないのかもしれない。
■「女優としての挫折」
幼少期から少女期のことは比較的おおっぴらに語っているが、女優時代のことはほとんど語ろうとしない。したがって、私の評論も傍証あるいは又聞きからの憶測の域を脱しないが、真実とそれほどかけ離れてはいないだろうと思う。
女優としてのayuは一見華々しい成果を上げていたように見える。しかし、実際には、さまざまな理由が絡み合って、次第に閉塞状況に追い込まれていったようだ。
アイドル事務所での不本意なグラビア・アイドル活動。自分の意志を捨てて、男や権力者に媚びを売り、ひたすら「顔にアホと書いてある女」(「ロッキング・オン」誌でのayu自身の言葉)たちのひとりとして振る舞うことが要求される世界。女優業にしても、いつも脇役で主役が回ってこない、そのくせ主役の女優が必ずしもayuより実力的に優れているとは思えないばかりか、陰で下っ端いじめや無理難題の小間使いを強いる、すべてが脚本家や演出家や監督の意のままに決定され、自分の意志が聞き入れられるすべもありそうにない・・・
そして最も本質的な問題点は、ayuの対人関係調整力の無さ、つまり、人づきあいがうまくできないというところにあったのではないかとじょいじょいは思う。
そんなこんなで、ayuは次第に芸能活動に情熱を失っていき、生きている目標も見失っていった。
その後、MAX松浦専務と出会って、歌手という新たな人生の目標を獲得したのは皆の知るところだ。
■Traumaの克服に向けて
いま、ayuはこの2つのTraumaを克服し、人生の「リベンジ」を果たす契機をつかみつつある。
言うまでもなく、「幸せな家庭」の方はTOKIOの長瀬くんとの恋であり、「女優としての成功」は、歌手としての成功の延長線上で、ayu主演映画の制作が現実味を帯びて関係者の間で語られていることを言っている。
「不幸な家庭」の克服については、長瀬くんとの関係がこのまま続けば、遠からずその「入り口」を獲得することができるに違いない。ただ結婚は「幸せな家庭」への「入り口」であるとともに、ayu同様の不幸な子を生み出す「不幸な家庭」への「入り口」でもある。「入り口」に入らなければ、「不幸な家庭」の二の舞を演じてしまうという最悪の事態に陥る危険もない。ayuがその危険の前に尻込みしてしまうか、それとも果敢に「リベンジ」をねらうか、また果敢に踏み出したとして、そのとき、子供には決して自分と同じ思いをさせたくないという思いが、自らを家庭の中に閉じこめてしまうことになるのか、それともあくまで家庭と仕事を両立させようと努力するか、大きな大きな人生の決断を迫られることになるだろう。
「女優としての挫折」の克服については、最もあり得るのは、「主演女優」としての成功によってリベンジすることだろう。しかし、その成功は純粋に「女優」としての成功とは言えないかもしれない。いまやayuにはさまざまな「尾ひれ」や「冠」がついており、敢えて誤解を恐れずいうなら、「何をやってもOK」状態だろう。その余勢を駆って「主演女優」に挑戦すれば、少なくとも「失敗」の烙印を押されることはまずないといっていいと思う。いわば「出来レース」状態であり、勝負は始めから見えている。(2ちゃんねるでは相変わらずayuバッシングの格好の標的になるだろうが)
ただ、特筆すべきは、ここにきて、これら2つのトラウマ自体が急速に解消されていっているように見えることだ。ayuのアーティストとしての成功が、ayu自身の心の成長と、社会との穏やかな融和の、ちょうどよい触媒となったのかもしれない。
2001年4月時点の「ロッキング・オン」のインタビューでは、Traumaの存在とそれに対する「リベンジ」への執念をあからさまにしていたayuが、1年後の「浜崎共和国」では、自分の過去について「誇りを持っている。例えば幼い頃の自分の家庭の環境とかを、私は不幸だとか可愛そうだとは一度も思ったことないし、今でも思っていない。結果グレてしまったことに対しても、私は悪かったとか、反省したこともない」と述べているし、「あゆの生き方って何かに復讐してるの?」というインタビューアの質問に「(母親に対して)前はそうだったかな?うん。今はもうしてない」と答えている。
(ちなみに前者の自分の過去への誇りについては、実は1998年末のオールナイトニッポンの中でも述べている。しかし、オールナイトニッポンでの言葉は、自分の過去、認めたくない自分への嫌悪の裏返し、強がりだと私には思われる。一方、同じような言葉でも「浜崎共和国」のそれには、ある種の余裕が感じられる。いや、これは私の単なる思いこみに過ぎないかも知れないが)
以前なら、ayuはきっと、今のこの歌手としての成功をバネにして、2つのトラウマを強引にでも消し去ってしまおうという強い欲求に突き動かされていたに違いない。そして皮肉にもそれが創作活動の原動力であり、ファンを引きつけるayuの魅力でもあった。
しかし、いまのayuはもはやそれほどの欲求に突き動かされなくなっているように思われる。Traumaは少しずつだが確実に消滅に向かっている。もしもそうだとしたら、アーティストとしてのayuにとっては創造のタネを失うという意味で、ある意味、残念といえるが、ひとりの生きた人間として見れば、それはayuにとって、とても好ましいことだと思うのだ。
その2つとは「不幸な家庭」と「女優としての挫折」だ。
この2つのTraumaは陰に陽に現在のayuの行動や決断に影響を与えていると思われる。
ayuの半生に「完成」というものがあるとしたら、それは単に「ソングアーティスト」としての成功によって達成されるのではなく、この2つのTraumaを克服し、「リベンジ」を果たすことができたときに初めて達成するだろうと思ったりもする。
■「不幸な家庭」と人格形成
「不幸な家庭」については、いろいろな場面でayu本人が言及している。(ラジオ「オールナイトニッポン」特番「浜崎あゆみはバカじゃない」、音楽雑誌「ロッキング・オン」、雑誌「Free & Easy」別冊「浜崎共和国」、その他、複数の雑誌のインタビューなど)
まだ物心付くか付かないかのある日の朝、父親が普通に会社へ出勤するように車に乗って出ていく。ayuはそれを眠い目をこすりながらぼんやり窓越しに見るだけだったが、実はそれが父親を見る最後となる。
幸せな日々からのこの突然の不幸は、「teddy bear」の題材としても取り上げられているように、ayuにとって非常に大きな出来事だったようだ。
興味深いのは、ayuがこの出来事を述懐するときに、不思議と自分を捨てていった父親への怒りや不平が感じられないことだ。両親の離婚の原因は結局明かされなかったようだが、本来その一端は父親に向けられていいはずの不満まで、すべて母親への「愛憎」に転嫁されているように見える。
あの寝耳に水の離婚劇も、問題は、父親が突然いなくなったことではなく、父親がいなくなるのをあらかじめ知っていながら、母親がそれを知らせてくれなかったことにあると感じているようだし、その後の生活も、片親だからということが問題なのではなく、母親が父親代わりを演じてくれるどころか、世間並みの母親の役割すら十分に果たしてくれなかった(と少なくともayuには感じられた)ことがayuには我慢ならなかったようだ。
母親でありながら、いつも「女」であることばかりを強調して生きていく母親に、ayuはずっと鬱積したわだかまりを抱いていた。着飾り、若作りをしてしばしば遊びに行く、家にいても母親らしいことはしない、できない、学校に子供のことで呼び出しを食らっても、「お腹が痛い」といって最後の最後ですっぽかし、担任から「お前もあんな親を持ってたいへんだな」と変な同情をされる、近所の同級生の親には「あそこの家と付き合うな」と釘を刺される、男の子に泣かされて帰ったら、「泣いちゃだめだ、やられたらやり返してやれ」と突き放される...
そうやってayuは人見知りのする、ひとり遊びの好きな女の子、協調性に欠け、クラスから浮きがちな生徒になっていったし、その後の社会生活でも事あるごとに閉塞状況に直面することになるが、そうなった原因の幾ばくかを(かなりの部分を)この母親との不幸な家庭のせいと考えていたふしがある。
ただ、ここで念を押しておきたいのは、そんな母親への憎悪だけがayuの心を支配しているわけでは決してないということだ。肉親への愛情と思慕が根底にあり、女手ひとつで世の中を果敢に渡っていった人生の先輩として尊敬もしているに違いない。いや、だからこそ、両親の離婚と母親への不満が深刻な「Trauma」としてayuの心に突き刺さっているともいえる。
「A Song for XX」はまさにその「愛憎」の止むにやまれぬほとばしりであり、「マミー」への赤裸々な告白であり、自分のそれまでの前半生への「レクイエム」といえる。そうやってayuは過去の自分を葬り去り、新たな、それまでの自分とは全く別の自分への一歩を踏み出そうとした。
この新たな旅立ちは、アーティストとしての成功とスタッフの暖かいサポート・理解によって、何とか軌道に乗せることができたようにも見える。しかしそれから2年後、「teddy bear」で再び同じテーマが取り上げられたときayuのTraumaの大きさを改めて実感させられることになる。もちろん、創作はあくまで創作であって、実体験がその作品にどこまで込められているかは本人にしか分からないので、割り引いて考える必要はあるのだが・・・
おそらく、「不幸な家庭」のTraumaを真の意味で解消することは、「幸福な家庭」を作り上げることでしか成し遂げられないのかもしれない。
■「女優としての挫折」
幼少期から少女期のことは比較的おおっぴらに語っているが、女優時代のことはほとんど語ろうとしない。したがって、私の評論も傍証あるいは又聞きからの憶測の域を脱しないが、真実とそれほどかけ離れてはいないだろうと思う。
女優としてのayuは一見華々しい成果を上げていたように見える。しかし、実際には、さまざまな理由が絡み合って、次第に閉塞状況に追い込まれていったようだ。
アイドル事務所での不本意なグラビア・アイドル活動。自分の意志を捨てて、男や権力者に媚びを売り、ひたすら「顔にアホと書いてある女」(「ロッキング・オン」誌でのayu自身の言葉)たちのひとりとして振る舞うことが要求される世界。女優業にしても、いつも脇役で主役が回ってこない、そのくせ主役の女優が必ずしもayuより実力的に優れているとは思えないばかりか、陰で下っ端いじめや無理難題の小間使いを強いる、すべてが脚本家や演出家や監督の意のままに決定され、自分の意志が聞き入れられるすべもありそうにない・・・
そして最も本質的な問題点は、ayuの対人関係調整力の無さ、つまり、人づきあいがうまくできないというところにあったのではないかとじょいじょいは思う。
そんなこんなで、ayuは次第に芸能活動に情熱を失っていき、生きている目標も見失っていった。
その後、MAX松浦専務と出会って、歌手という新たな人生の目標を獲得したのは皆の知るところだ。
■Traumaの克服に向けて
いま、ayuはこの2つのTraumaを克服し、人生の「リベンジ」を果たす契機をつかみつつある。
言うまでもなく、「幸せな家庭」の方はTOKIOの長瀬くんとの恋であり、「女優としての成功」は、歌手としての成功の延長線上で、ayu主演映画の制作が現実味を帯びて関係者の間で語られていることを言っている。
「不幸な家庭」の克服については、長瀬くんとの関係がこのまま続けば、遠からずその「入り口」を獲得することができるに違いない。ただ結婚は「幸せな家庭」への「入り口」であるとともに、ayu同様の不幸な子を生み出す「不幸な家庭」への「入り口」でもある。「入り口」に入らなければ、「不幸な家庭」の二の舞を演じてしまうという最悪の事態に陥る危険もない。ayuがその危険の前に尻込みしてしまうか、それとも果敢に「リベンジ」をねらうか、また果敢に踏み出したとして、そのとき、子供には決して自分と同じ思いをさせたくないという思いが、自らを家庭の中に閉じこめてしまうことになるのか、それともあくまで家庭と仕事を両立させようと努力するか、大きな大きな人生の決断を迫られることになるだろう。
「女優としての挫折」の克服については、最もあり得るのは、「主演女優」としての成功によってリベンジすることだろう。しかし、その成功は純粋に「女優」としての成功とは言えないかもしれない。いまやayuにはさまざまな「尾ひれ」や「冠」がついており、敢えて誤解を恐れずいうなら、「何をやってもOK」状態だろう。その余勢を駆って「主演女優」に挑戦すれば、少なくとも「失敗」の烙印を押されることはまずないといっていいと思う。いわば「出来レース」状態であり、勝負は始めから見えている。(2ちゃんねるでは相変わらずayuバッシングの格好の標的になるだろうが)
ただ、特筆すべきは、ここにきて、これら2つのトラウマ自体が急速に解消されていっているように見えることだ。ayuのアーティストとしての成功が、ayu自身の心の成長と、社会との穏やかな融和の、ちょうどよい触媒となったのかもしれない。
2001年4月時点の「ロッキング・オン」のインタビューでは、Traumaの存在とそれに対する「リベンジ」への執念をあからさまにしていたayuが、1年後の「浜崎共和国」では、自分の過去について「誇りを持っている。例えば幼い頃の自分の家庭の環境とかを、私は不幸だとか可愛そうだとは一度も思ったことないし、今でも思っていない。結果グレてしまったことに対しても、私は悪かったとか、反省したこともない」と述べているし、「あゆの生き方って何かに復讐してるの?」というインタビューアの質問に「(母親に対して)前はそうだったかな?うん。今はもうしてない」と答えている。
(ちなみに前者の自分の過去への誇りについては、実は1998年末のオールナイトニッポンの中でも述べている。しかし、オールナイトニッポンでの言葉は、自分の過去、認めたくない自分への嫌悪の裏返し、強がりだと私には思われる。一方、同じような言葉でも「浜崎共和国」のそれには、ある種の余裕が感じられる。いや、これは私の単なる思いこみに過ぎないかも知れないが)
以前なら、ayuはきっと、今のこの歌手としての成功をバネにして、2つのトラウマを強引にでも消し去ってしまおうという強い欲求に突き動かされていたに違いない。そして皮肉にもそれが創作活動の原動力であり、ファンを引きつけるayuの魅力でもあった。
しかし、いまのayuはもはやそれほどの欲求に突き動かされなくなっているように思われる。Traumaは少しずつだが確実に消滅に向かっている。もしもそうだとしたら、アーティストとしてのayuにとっては創造のタネを失うという意味で、ある意味、残念といえるが、ひとりの生きた人間として見れば、それはayuにとって、とても好ましいことだと思うのだ。
2002年07月14日
4thアルバム『I am...』について
4thアルバムについてようやく語るときが来ました。「談話室」の方で既にさまざまに語り尽くされた感があり、何を今さらとも思えますが、じょいじょいはじょいじょいなりの感性で語ってみたいと思います。それにしても発売後すでに6ヶ月が経過しているんですね。今さらじょいじょいがこんなものを出しても、気の抜けたサイダーみたいでほとんど意味がないかもしれませんが、前に進むためにはやはりどうしても通らなければならない道だと思っています。
その前に、これまでリリースされたオリジナルアルバムについてごく簡単な総括をしておきましょう。
1stアルバム『A Song for XX』は、専務が全力を傾けて売り出しただけあって、楽曲にも恵まれ、デビューして半年やそこらの新人が出すファーストアルバムとしては異例の質の高さ、充実ぶりを示していると思います。
もちろん、まだアーティストとしてのayuのスタンス、方向性が定まっていない時期に出されたため、どうしても玉石混淆の感は否めません。プロデューサーとしても一応、十代の新人ソロ歌手の通例にしたがい、アイドルPOP歌謡的な部分を完全に排除するだけの勇気と自信はまだなかったに違いありませんし、また楽曲の提供者たちも、ayuの特質を捉えたうえでの楽曲提供というところまでには至っていなかったため、やはり少なからずアイドルPOP歌謡的な楽曲提供を意識していたように思われます。
にもかかわらず、そこに収録された多くの作品は確かに4thアルバムが出た現在にあっても依然、珠玉の光を放っており、そのいくつかは間違いなくayuの代表作となっています。
ayuの紡ぎ出す独特の詞の世界は、決して若いアイドル歌手が話題づくりのために「ちょっとチャレンジしてみました」的に作詞を手がけたものと同列に扱うことのできない質の高さとオリジナリティに溢れています。まさに専務が感嘆したように「この娘はどういう10代を送ってきたんだろう」と思わせるものになっています。
そしてそれに、菊池一仁を始めとするいままさに花開こうとしている新進気鋭の作曲家陣・アレンジャー陣のエネルギーと天才とがあいまって、フレッシュな感動と驚きを私たちにもたらしてくれています。
何よりも、それまで言いたいことをうまく周囲とコミュニケートできなくて、心の中に長年の間、積もり積もって悲鳴を上げていたさまざまな思い、その思いを表白し解放する術を「歌」というものに見い出すことのできた喜び、そしてそれを可能にした「心の肉親」(専務とnatsukiさんのことですね)との出会いの喜びが、このアルバムを求心力のあるものにしているといえます。
次に2ndアルバム『LOVEppears』ですが、これはayuが「アーティスト」としての自分の居場所をある程度見定めることができ、ようやくうち解け信頼を寄せることのできるようになったスタッフに囲まれた中で完成された作品であり、後世に、ayuの「第1期黄金時代」を象徴する作品と称せられるだろうと思われる円熟した作品に仕上がっています。個人的にはいまのところayuのアルバムの中で最も評価する作品です。
特筆すべきは、作曲家D・A・Iとの出会いです。これが、内省的なayuのパフォーマンスに振幅と深みをもたらす結果となっています。
3rdアルバム『Duty』についてはすでにこの「ピリ辛いため」で論じました。
アーティストとしての人気と評価を獲得し、どちらかというと苦手と感じていたライブも見事に成功させた直後の作品として、このアルバムには、余裕とそこから来る実験的試みが随所に見られます。しかしその実験が少なくともじょいじょいにとっては、間違った方向での実験に感じられ、前回の3rdアルバム『Duty』のとき、私は「純粋に曲(+編曲)と詞の2点から評価すれば、非常に高得点を与えることができる」が「それだけに、歌い方と声の状態が残念で仕方ありません。ayuとしては曲に合わせて歌い方を臨機応変に変えているつもりなのでしょうが、結果的には失敗している」と論じました。そしてこの思いは今でも変わりありません。ごく簡単に総括すると、どの作品も素材(詞、曲)としては非常に芸術性の高いものを持っているにもかかわらず、ツアー終了からの制作期間があまりにも短すぎたために、シンガー(歌う楽器)としてのayuの仕上がり(回復)具合も含めて、熟成と味付けの調整が足りなかったということです。
さて、そしてこの4thアルバムです。
(なお、詞を参照したい場合は、適宜、JASRACの承認を受けた「恋人達の指輪」もしくは「ayumi-hamasaki.com」をご覧下さい)
1.構成について
このアルバムが出た当初、当サイトの談話室でも、ジャケットの意味とタイトルの構成の相関性について、さまざまな議論がなされたのを記憶しています。しかし結局私はそこに確とした意味づけを読みとることができませんでした。
ジャケットが夜明けから夕暮れまでの砂漠の一日を時系列的に描いていること、鳩が平和のシンボルであり、おそらくあのアメリカの衝撃的な同時多発テロに触発されたものであろうことは当然読みとれますが、それ以上のことをあれこれ詮索してみても、深読みのしすぎにしかならないように思えます。たとえばayuと鳩がともにいるページと鳩がいなくなったページとayuも鳩もいなくなったページにそれぞれ特別な意味があり、それがその各ページに掲載されたタイトルの説明になっているというような説です。
では、このアルバムに収録されたタイトルの順番に意味はないのでしょうか。これについてもいろいろな議論が繰り広げられた記憶がありますが、私の読みはきわめて単純です。
このアルバムは大きく3つの部分からなっています。
そしてその3つの部分が2つのInstrumental作品で区切られています。
最初のブロックは「I am...」の1曲です。これはアルバムタイトルになっていることからもわかるように、アルバムの自己紹介、序章にあたるものです。
次のブロックは、「Connected」〜「Daybreak」までで、ロック調、電子楽器系、どちらかというと「動」の作品を集めています。
そして最後のブロックは、「M」〜「Endless sorrow」までで、どちらかというとバラード調、アコースティック系、「静」の作品を集めています。
この構成が成功だったかどうかはちょっと疑問です。初めてayuの作品に接する人にとって、最初の数曲の印象は大事だと思うのですが、この構成では、ayuというアーティストの性格に偏ったフィルターが掛けられてしまう可能性があると思うからです。つまり、いきがってRockっぽく振る舞おうとしているけど全然なりきれていないJ-POPシンガーだというように。また似たような曲が続くことになるので、飽きられやすい、あるいは2曲目以降のインパクトが弱くなるという問題があります。
同種の曲をまとめるよりむしろ適当に散りばめた方がよかったと思います。
2. 各作品の評価
■「I am ...」 (作曲:CREA 編曲:Tadashi Kikuchi + tasuku)
とにかく「痛い」。この尖った痛さを聴き手に思いっきりぶつけることがこの作品の目的だとすれば、この作品は十分にその目的を達成していると思います。 ただそれを素直に受け入れられる人と、その過剰な自我の表白にちょっと引いてしまう人とに受け手がはっきり分かれるに違いありません。
この作品には、ayuの最近の作品にしばしば出てくるモチーフがやはりいくつも現れてきます。ひとつはファンや周りの人々にちゃんと「伝わ」っていない、本当の自分を解ってもらえていないという嘆き。そして、「生き急ぐ」ことから逃れられず、またそれを良しとする「滑稽」ですらある創造者としての自分、「矛盾だらけの」自分。そしてかつて「永遠」という言葉で表現しようとしたものとどこまで同じかはわからないけれども「たったひとつの言葉」を探し求める求道者としての自己の再表明。
ayuの抱える根深いトラウマについては、また別の機会に論じようと思いますが、自分の本質、本意を周囲や肉親や分かってほしい人たちにわかってもらえていないし、わかってもらえるように行動できない焦燥感とそんな自分への侮蔑、周囲との深い溝を、ayuはおそらく小さい頃からずっと抱えていて、アイドルタレントや女優になりそしていまこうやってアーティストとして活動を続けるのも、ひとつにはそういうアリ地獄から何とかして逃れたいという(無意識の)目的が根底にあるように思います。
これらの悲痛な叫びを痛々しくも共感を持って受け止めことのできる人は幸せです。そういう人たちはきっと、今を生きるayuを心底から好きなのでしょう。一方、昔からのファンの中には、熱烈なファンでありながら、いや熱烈なファンだったからこそ、「あたし、あたし、あたし、…」という自意識過剰な押し付けがましさに閉口したり、「どうか解って そんな事を言っているんじゃないの / どうか気付いて こんな物が欲しいわけじゃないの」と言う割には、自ら好んで誤解されるような行動ばかり取ってきたじゃないかと感じられる人もいるのでは?
ただ、それでも感心させられるのは、解ってもらえないとか生き急ぐだとか矛盾だらけだとかの自己表明、自己憐憫、あるいは聴き手によっては自己弁護だけにとどまることなく、最後にしっかり「私はずっとたったひとつの言葉を探してる」というayuのアーティストとしての存在理由を宣言するのを忘れないところです。この言葉が単なる流行歌手ではないayuの思索性・哲学性を浮き彫りにし、このアルバムのプロローグとしてのこの作品の価値を明確なものにしているといって過言ではないかもしれません。
そしてまた、これは本質的ではありませんが、この最後のフレーズをあたかもサイボーグかロボットのようなデフォルメされた声でとつとつと歌い上げたところがいかにもayuらしい技巧で、思わずあのTUKAのサイボーグayuのCMを思い出してしまったのは私だけではないでしょう。
■「Connected」 (作曲:Ferry Corsten 編曲:Ferry Corsten)
この作品を初めて聴いたとき、真っ先に「WHATEVER」を思い出しました。オリジナル曲自体がすでにリミックスの様相を呈していることがそうさせたのだと思いますが、それと同時に、残念ながら、曲の斬新さに比べて、詞の方が他の作品に比べると、いまひとつ掘り下げ方が足りないところも共通していると思います。
ただこの作品の出来上がった経緯を考えればそれも仕方がないことかも知れません。 この作品は作曲者のFerry Corsten(彼は世界的に有名なRemixerでもあります)がまず曲を完成させ、ayuにぜひともこの曲に詞を付けてほしいと依頼してきて、ayuがそれを快く受諾したという経緯から出来上がったものです。
その際にayuは、外国人のFerry Corstenが日本語の意味を理解できなくても分かり合えるような詞を目指しました。その結果、詞の意味よりもむしろ語感を重視し、韻を多用したあの「ミカケテ ミツケテ ミサダメテイル …」というフレーズが誕生したわけです。
しかもいかにも常識にとらわれないayuらしいといえるのですが、この詞は依頼者Ferryへの私信の役割をも果たしています。「自分たちは別々の言語を使っているけれど、それでもこうやって言葉というものを通してお互いの気持ちを伝え合い、解り合うことができるんだね−」と。そしてこれはFerryだけでなく、私たちみんなへの問いかけにもなっています。「私たちを結びつけている言葉というものを深く考えれば考えるほど増してくる、その重みと不可思議さ。みんなもちょっと考えて見ようよ」と。
これは優れて哲学的なテーマですね。そしてこの難しいテーマを何のためらいもなく作品の中心にすえてしまうのもいかにもayuらしい。そう、このアルバムのひとつの特徴は、このような抽象的なテーマやメッセージ性の強いテーマについても臆せずファンの前に提示する決断が出来るようになった点にあるといえるでしょう。この傾向は前作の「Duty」で既に芽ばえていますが、ここへきて完全に一歩踏み出したわけです。
ayuは元来、そういう抽象的な問題をあれこれ思索することを好むようです。
例えば、2000年元旦のラジオ番組での新年会で次のように発言しています。ayuのいわゆる「永遠」論のくだりです。(実際には各発言の間に、他の出演者の発言が入ります。
「だから、記憶の中なわけよ、永遠っていうのは」
「だから、記憶がない人間には、永遠はないわけよ。記憶を持ってるから、その過去があるからこそ永遠があるわけで、過去を捨てた人間には永遠っていう言葉はないわけよ」
「でしょ、そこに気付いて…。 みんなはね、永遠っていうのは未来の所有物だと思ってるわけよ」
「違うんだよ。そんなことをね、毎日家で一人で考えてるんだから。暗いでしょ?(笑)」
いろいろな情報ソースから推測するに、ayuと専務は折につけ、音楽論や人生論などについて議論を戦わせてきた形跡があります。ふたりはそういう人生の深いところで互いを理解し合う間柄として今日に至っています。その間、いろいろな理由で疎遠になったり、実際物理的に遠ざかったり、そしてまた互いを求め合い、接近したりということを繰り返してきたと思われます。
この作品はFerryへの私信になっていますが、実際には専務への私信でもあると思っています。
しかしそれにしても、詞の中で「ミカケテ ミツケテ…」の部分を除くと、メッセージはわずかに次の4行です。
「そう僕達はあらゆる全ての場所で繋がってるから」
「この言葉について考える君とだってもうすでに」
「ああ僕達がいつか永遠の眠りにつく頃までに」
「とっておきの言葉を果たしていくつ交わせるのだろう」
聴き手に人生観のいっぱい詰まったメッセージを送り届けるには余りに短すぎるというものです。結果として、斬新な音楽性にもかかわらず、詞が「私信」以上には昇華し切れていないというのがじょいじょいの実感です。
いや、むしろ、われわれはこの作品を、歌詞の意味の読みとれない海外作品に対してやるように、あくまで音楽として、耳で聴くことに徹するべきなのかもしれませんね。いつも海外作品に対してはそうやって接していて、しかも優れた作品を十分鑑賞できているわけですから。
実際、このアルバムの中でもこの作品は最も好きな曲のひとつです。初めて聴いたときから、良い意味で妙に耳にひっかかってくるのです。Ferryの卓越した作曲・編曲とayuの音域ぎりぎりのハイトーンボイスとがうまく相乗効果を出していると思います。詞は確かに重要ですが、詞の意味がなくても、音楽は十分我々を感動させてくれるという当たり前といえば当たり前のことを、この作品は実感させてくれます。
最後にひとつだけ、初めて聴いたとき抱いた期待が、その後の状況を見ると外れてしまった部分について触れておきます。
この作品を初めて聴いたとき、「WHATEVER」同様、これからたくさんのリミックス作品の「タネ」となっていくべき素材だと思われました。しかしなぜかその後、この作品のリミックスが作られたという話はとんと聞きません。これはどういうわけでしょうか? 何かFerryとの間に版権か著作権の取り決めがあるのでしょうか?
じょいじょいの勝手読みとしては、おそらく、優れた音楽性にもかかわらず、音楽的構成に少し単調なところがあり、味付けがしにくいため、rimixerから敬遠されているのではないでしょうか。そこがちょっと残念ではあります。
■「UNITE!」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
最初聴いたときには決して良いと思わなかったのに、後から評価を上げる作品というものがあるものです。じょいじょいにとってこの「UNITE!」はまさにそういう作品のひとつです。
シングルとして発売された当初から、じょいじょいにはどうしてもこの作品が我慢なりませんでした。誤解されないようにしたいのですが、わたしはこの作品の音楽性については始めから評価しているつもりです。
問題は、「自由を右手に 愛なら左手に」という手垢の染みついた常套句をサビの一番重要な部分に臆面もなく使うayuのayuらしくない無神経さ・創意工夫のなさと、プロモーションビデオやドームツアーで見せた、あのどうしても軍隊やナチスを想起させる迷彩服の一団が団結(UNITE)して拳を振り上げるシーンとにあります。
前者については、自分の言いたいことにできるだけ近い言葉をぎりぎりまで探し続ける姿勢こそがayuのayuたるところだと思うのですが、それをいとも簡単に放棄しているように見える、それがじょいじょいにはどうにも容認しがたいのです。
また後者については、これは十代の若い方々には実感がないかもしれませんが、ナチスを想起させるような服装や行為は、いま生きている多くの世代にとって、特別の意味合いを持つことにもっともっと自覚をもってほしいと思います。「過去のことは過去のことで、もういい加減に気持ちを切り替えて、未来に向かって踏み出そうよ」という意見は至極まっとうな意見ではありますが、戦後50年以上が過ぎても、拭い去ることのできないトラウマは、未だに全世界に厳然として存在しているのです。残念ですが。ayuのあのパフォーマンスが仮に反戦の意思表示として逆説的に軍隊的なイメージを取り上げているのだとしても、(私にはどうしてもそうは思えませんが)やはり人々の感情を考えれば、ああいうことを安易にやるべきではなかったと思います。
いや、たとえ上の世代の固定的なイメージがなかったとしても、あのパフォーマンスは、「私はロッカーでもありたいの。どう? ロックミュージシャンとしても一流とは思わない?」と露骨にアピールしている「いかにも」なものに見えて、あまりいい気持ちはしませんでした。じょいじょいが少々ひねくれてとらえすぎなのかもしれませんが。
そんなわけでじょいじょいにとって、「UNITE!」は最初から良い印象を持てない作品として存在するわけですが、今回、純粋に耳からのみ鑑賞してみて、この作品がCREAの作品にもかかわらず(ごめんなさい、これ、実感です)、思いのほか優れた音楽性を有していることに気がついた次第です。こうなってみると、なおさら、あの「自由を右手に 愛なら左手に」という安易なフレーズと迷彩服姿の印象が悔やまれてなりません。
最近のayuはどうもロックを自分のスタンダードナンバーにしたいという意識が強いようで、それが自分で作曲するに至ってようやく実現できる環境になってきたわけですが、 これらがなければ、この作品は一般の音楽通に対して、ayuのロックシンガーとしての新たな側面をもう少し強くアピールできたのではと思えるのです。
■「evolution」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
この作品もシングル発売当初からじょいじょいにとってあまり好きになれない作品です。そもそもこの作品が初めて世に出たのはカウントダウンライブにおいてですが、そのときの発声の曖昧さ、言葉を大切にしているとは思えない歌い方に対する反発が「刷り込み」されて現在に至っています。実際、あの場でこの歌が何を歌ったものか理解できた人はまず殆どいないのではないかと推測します。そういえば「wow yeah」を「前へ」と理解していて、後で歌詞カードを見て、初めて誤解に気づいたという人も多くいたように記憶しています。ayuは歌詞に英語を使わない主義なのにこの歌はそれを破っているといった反発の声もありましたね。「wow yeah」を英語ととるかすでに日本語と化した擬音語ととるかは、まあ微妙なところですが、本質的な議論ではないでしょう。ただ、このあまり意味のない擬音語がこの作品の至る所で繰り返されるのを聴いたとき、世間によくある通俗的なロックを想起したし、ayuはここで思考停止し、詞を紡ぎ出す作業から逃げているなと感じたものです。
詞についてもう少しコメントします。
この作品では、このかけがえのない地球、このかけがえのない生、このかけがえのない時代を「君」と共有できていることへの感謝と喜び、「生」の肯定、そしてその中でしっかり自分を持って強く生きることの大切さが語られています。しかし、ただそれだけではいかにも普通のメッセージに終始しています。そこに人がはっとするような人生観的味付けを加えるのがayuの詞の特徴だと思うのですが、どうもその味付けが欠けている。唯一、我々が生まれてくるときのいわゆる産声が、「なんだか嬉しくて」「なんだかせつなくて」泣きながら生まれてきたんだという発想が斬新ではありますが、これだけでは…というのがじょいじょいの正直な感想です。
これもじょいじょいの勝手読みですが、この作品を作った時期はちょうどayuが作詞に加えて作曲に手を出し始めた時期で、そういう音楽的実験の方に夢中になっていたことと、21世紀を迎えるという滅多に体験できないイベントの重なったカウントダウンライブに向けて、前向きの元気な曲をとにかく完成させたいとの気持ちが強かったことから、詞の方の錬成が若干手薄になってしまったのではないでしょうか。
誤解があるといけないので、付け加えておきますが、もしもライブを盛り上げる活きのいい曲を作るのが目的だとしたら、この作品は見事にその目的を達していると思います。その意味では申し分のない出来ですし、この手の作品がそれまでのayuには少ないですから、貴重な財産であることに間違いはありません。実際、 あの歌い方と詞の厚みのなさを度外視してこのアルバム収録を機会に改めて聴いてみると、「UNITE!」同様、音楽的にちょっと見直したというのが実感です。
ただ、ライブであの宇宙人のような、わざとつぶれたような声で歌われるのには個人的に大いに辟易しています……
■「Naturally」 (作曲:CREA 編曲:CMJK)
ayuがayuの「王道」を示した作品であり、このアルバムに収録された作品の中でも最も完成度の高い作品だと思います。余談ですが、この作品を初めて聴いたとき、わたしは『LOVEppears』所収の「And then」を思い出しました。そして、今のayuにもまだこのような作品が書けるんだという率直な驚きと喜びを覚えました。ayuはやっぱりayuなんだと。
音楽的には、最初聴いたとき、てっきりD・A・Iの作品だろうと思いました。ayuは非常に頭のいい人で、既存のもののエッセンスを吸収して自分のものにする力に優れていると思いますが、作曲の面でもその能力を存分に発揮しているようです。
詞のモチーフは「I am...」とだいたい同じで、やはり、創造者・探求者・アーティストとして孤独の中、がむしゃらに「生き急ぐ」日々の中でぶち当たるさまざまな矛盾、見え隠れする限界、先の見えない不安に揺れ動く心、そしてそんな矛盾と孤独を抱えたままのありのままの自分を強く生きていこうという決意、そしてそれを分からせてくれた「あなた」への感謝の気持ちを表白していますが、「I am...」よりはもっと深堀りされ、具体化されています。
このモチーフについて、この作品を初期の「Trust」あたりと比べてみるとなかなか興味深いものがあります。いずれも過去と現在の生きる不安が表現されており、それが「あなた」のおかげで新たな生の局面へと導かれたという内容になっています。しかし、初期の作品では、諦めたり卑下したり他人を傷つけるのが怖かったり周りばかり気にしていたりする弱い自分がいるのに対して、「Naturally」では目標に向かった戦いを続ける自分がいます。この3年ほどの間でayuの人生のステージは明らかに大きく前進しているのが見て取れます。しかしだからといって、矛盾や葛藤はなくなったかというとむしろ大きく深くなったかもしれません。その心の迷路に一条の光を導いてくれたのが、再び「あなた」だった−。
これはあくまでもじょいじょいの勝手な推測ですが、「Trust」のときの「あなた」と「Naturally」の「あなた」は、≪あの≫同一人物だと思います。決して最近話題の恋人ではないでしょう。
まあ、それはさておき、このアルバムの中にどうしても「ayu節」は欠くべからざるものであり、「Naturally」はそれを忠実に表現したものになっています。あまりにayuらしいところが鼻につく人もいるかもしれませんが。
■「NEVER EVER」 (作曲:CREA 編曲:CHOKKAKU)
ayuが自ら作曲を手がけ始めるようになってから、最も抵抗感の少なかったのがこの「NEVER EVER」です。この作品についてはシングルとして発売時に、このピリ辛いためで取り上げています。(2001年3月20日参照)
ノスタルジックな前奏から続く静かな導入部が全体の基軸を提示し、その後の比較的激しい主題部との対比が印象的な、ayuの持ち歌には珍しい3連符の作品です。
「もしもたったひとつだけ…」で始まる主題部が、いきなりクライマックスになっている構成に唐突な感じを受ける人もいるかもしれません。静かな導入部との間にもうひとつ何かサンドイッチとなるものがほしい気は確かにします。詞と曲の両面に、その「あともう少しの何か」が加わっていれば、この作品はもっと広い層に受け入れられるスタンダードナンバーになっていたかもしれませんね。
それを詞の面からとらえると、言説が十分に尽くし切れていないため、聴者の心に共鳴するまでに至っていない可能性があります。じょいじょいの理解する限り、この作品の主題は、
自分は「不変なもの」をずっと探し続けてきた。そしてようやく「君」の私への不変の愛を獲得したと思ったのに、それも失ってしまった。「君」の愛がなければ、自分は生きている意味がない。私の「君」への愛はいまも不変だよ。だから、もしもたったひとつだけ願いが叶うとしたら、私は、「君」の私への変わらぬ愛をもう一度くださいとお願いする。いま私から「君」へ「不変なもの」を差し出すことができる。それは「君」への変わらぬ愛。だから「君」の愛がほしい−。
ということだと思います。(ちなみにここでの「君」も、ayuの初期作品から絶望3部作を通って現在に至るまでの「君」や「あなた」と同一人物だとじょいじょいは確信しています。一度だけこのあたりの事を「ピリ辛」に書いたことがありますが、根拠の希薄な憶測に過ぎなかったのですぐに抹消しました。しかし、最近出版された『浜崎共和国』のayuのコメントを読んで、じょいじょいの理解が間違っていなかったことを確信しました)
このような作品の主題を、その背景とともに理解してようやくこの作品に共鳴できるのかもしれませんね。もしそうだとしたらやはりもう少し抽象度を落とし、適切な言葉で主題を補足した方がよかったのではと思うのです。
とはいえ、最初に言ったように、じょいじょいはCREAの作品の中では比較的好印象を持って受け入れている作品です。音楽的にも詞的にも特段の新奇性はないかもしれませんが、かわりに全体がバランスよくまとまっており、安心して聴くことのできるナンバーだと思います。ここでも歌い方と歌声への不満を除けばという但し書き付きですが。
■「still alone」 (作曲:CREA 編曲:CMJK)
「Naturally」と同じ背景を担った作品です。しかし「Naturally」では「あなた」との別れは明示的には描かれておらず、まず孤独ありきで、その孤独の中でクリエーターとして格闘する中でぶつかった壁、それを乗り越える力を「あなた」の言葉によって得ることができた、「あたし」はこれからもありのままの自分をさらけ出して孤独のなか前進していこうと決意が語られるのに対して、この「still alone」では、「君」と別れてから、「私」も同じ孤独な戦士として生きるようになって初めて、クリエーターとしての「君」のことが理解できるようになった、同じ道を共に歩いていくはずだったのにどうして「私」は「君」と別れてしまったのだろうと、あくまで「君」への後悔の念を表すことに終始しています。
どちらかというと、「Naturally」では強いayuが、この「still alone」では弱いayuが語られているといえるでしょう。
音楽面でこの作品を見てみると、もう少し編曲がどうにかならなかったかなと感じます。CREAの作品自体が若干平板なところがあるので、そこを編曲でカバーしているというのがCREA名義の作品の実情ではないかと思います。しかし、この作品については、何というか、全体にべたべたとした平板な音づくりに終始していて、曲の平板さを助長しているところがあると思うのです。(編曲のこの「べたべた」さや音の汚さは実はこのアルバム全体を通して感じる欠点なのですが)
それは特に「その夢守って行くためには 私がいちゃいけなかった」以降のサビの部分で特に顕著に感じます。詞がなかなか良いと思うので、そこが残念で仕方ありません。
それにしても、最後の「約束は覚えているの 忘れた日はないの」というフレーズはとても意味深ですね。どんな約束なのでしょう? 二人だけが知っている共通の暗号なのでしょうか?
聴き手それぞれに自分なりの「約束」を思い描いてもらおうとする技巧としての「抽象表現」ではなく、ayuと「君」にしか分からない具体的な「約束」(つまり私信)をこっそり(でもないか)詞の中に潜り込ませたayu特有の仕掛け(遊び心)ではないかなと何となく思えるのです。いや、根拠はありません。
■「Daybreak」 (作曲:CREA + D・A・I + junichi matsuda 編曲:tasuku)
この作品は3人の合作という珍しい形態をとっていますが、それぞれの作曲家の持ち味をうまく生かしたものに仕上がっていると思います。(といっても松田純一さんの持ち味はまだよく把握できていませんが)
ayuには珍しい明るくポジティブなバラード曲で、このアルバムの中でも特に好きな作品のひとつです。
内容的には、ある共通の目標に向けて歩んでいた「君」と「僕」がいまは遠く離れているけれど、心はいつもそばにいるつもりだよ、だからこれからも、あの見果てぬ夢目指して二人して歩いていこうという主旨であり、これは「Still alone」の背景とほぼ同じ構図だと思われます。ただ両者が決定的に違うのは、「Still alone」が離ればなれになっていることをネガティブにとらえ後悔の念が支配しているのに対して、この「Daybreak」では別離を前向きに受け止め、昔、ともに見つめた目標に向かって再出発しようとしているところです。
そして、こう考えると、「Still alone」の最後の「約束は覚えているの 忘れた日はないの」という一節と、「Daybreak」の最後の「いつかあの日夢見た場所へと 旅してる同志だって事を 忘れないで」とが実は同じことを言っているのではないか、そしてそれは音楽の世界において永遠に残る作品を作り上げるという目標なのではないかという仮説を立てることもできます。まあ単なる一仮説ではありますが。
作詞の技術の面から見ると、この作品でも、ayuらしい思索性・思想性のあるフレーズがそこかしこに散りばめられ、抜群の冴えを見せています。具体的には
きっと光と影なんて
同じようなもので
少し目を閉じればほらね
おのずと見えるさ
とか
全ては偶然なんかじゃなく
全ては必然なコトばかり
かも知れない
などは涙もののフレーズですね。(最後に「かも知れない」を付け加えたところも憎い限りです)
ところでこの作品は、アルバムに収録されたあとに、リカット・シングルとして発売されましたが、そのときにMixを大幅に変えていますね。シングル版の方は、より憂いを込めたアレンジになっていますが、確かにこのアルバムバージョンの欠点は、徹底的にポジティブだという点かもしれません。実際、初めてアルバムでこの曲を聴いたとき、味付けとしてもう少しマイナーな部分もあった方が、全体が引き締まるのになあと感じたものです。しかし、シングルバージョンの「Daybreak」は逆に「憂い」が過剰になっており、じょいじょいの個人的な好みからすると、このアルバムバージョンの壮大な感じの方が好きです。
より微妙な匙(さじ)加減の効いたリミックス曲の出現をぜひとも待ちたいという気持ちが大です。
■「M」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
この作品もそうなのですが、ayuの作曲する最近の作品は、総じて、発表当初よりも、後になってから、その音楽的な価値を理解できるようになるものが多いように思われます。これはどうしてなのでしょう?
きわめて好意的に解釈すれば、ayuの音楽的な先進性に我々がすぐにはついていけていないともいえるかもしれませんが、じょいじょいはそこまで肯定的にとらえることはできていません。ayuの音づくりが世間的な音づくりの「常識」から若干はずれたところでなされており、既存の音楽に慣らされた者にはそれがどうも拭いがたい違和感として立ちはだかるように思えます。そしてその違和感が何度も聞いているうちに慣れてきて、だんだん薄まっていくのだと思います。しかし慣れることによって違和感を感じなくなるということと、その作品が既成概念を打破する新時代の音楽だということとは全く別次元の話です。
真に時代を変える音楽は、やはり既成概念を打ち破るものを持っていますが、同時にそれはそれを初めて聴いた者に即座に「あっ!」と思わせるだけの圧倒的な説得力、まさに「目から鱗」を落とす力を持っているものです。自分の「常識」が実は作られた「常識」であることを直感的に気づかせ衝撃を与えてくれるものこそ、一時代を築く音楽といえるでしょう。その点からすると、ayuの作曲する作品の「違和感」は、どうしても「違和感」という所にとどまっているように感じられるのです。
ただ、私は何という意地悪をしているのでしょう?
この1年や2年の間に作曲を手がけるようになった者の作品を、一時代を築いた数少ない偉大な作品を引き合いに出して論ずるのは余りにも酷というものです。「ayuが作曲? そんな甘いもんじゃないよ」と言っていたことを考えれば、ayuは思いの外よくやっていると思います。何よりも感心するのは、既成の概念にとらわれずそれを乗り越えていこうというayuの明確な意志がそこに感じられることです。ayuは無知で「違和感」を残しているのではなく、意識的に「違和感」を作っていると思います。ただ先程も言ったように、それがもう一皮むけていないのが現在の状態だと思うのです。
ちょっと総論ぽくなってきたので、ここで話を「M」に戻しましょう。
この作品は作曲、作詞とも、ayuが自ら手がけた最初の作品になります。この作品については、発表された直後の2000年12月13日付けの「本日のひとりごと」の中で次のように書きました。
「 入荷日にayuのCDを買わなかったのは久しぶりのような気がする。今日も買うかどうかわからない。理由は簡単だ。テレビで聴いた「M」が残念ながら作品として水準に達していないと感じたからだ。特に楽曲の完成度が全般に低いのと、いつものような詞と曲の絶妙のおさまりの良さが今回に限っては欠けているように思える」
この発言を巡って、「水準」とは何か、そんな絶対的なものは存在するのかといった議論が巻き起こった記憶があります。しかしこの思いは基本的に今も変わりなく持っています。この作品の音楽的常道を無視した座りの悪さは、旧習を破壊する革命者としての逸脱にまでは達してなく、ただ音楽的な常識を知らないが故のものだと。そしてその思いは、雑誌「Rockin' on Japan」誌上でのayu自身の発言「またなんかいきなりこう、素人ちっくなというか、自分には凄くそういう風に聞こえるんだよね。なんかこう……自信は全くなかった。(中略)歌入れ終わって聴くと、『はぁ〜』って。『大丈夫かな?』ってもうしつこいくらい聴いてた」「あの作品はそんなに売れる感じじゃなかったと今も思ってる。(中略)あんなに売れちゃいけないと思ってた」(2001年4月号72〜73ページ)という発言によって、裏打ちされたと思っています。
ただ不思議なもので、さんざん聞き慣れてみると、これもありかなと思えてくるものです。もう少しアレンジをうまくやれば、逆に斬新な作品として輝きを保つものになるかもしれないと。
そうは言っても、どうしても納得できないところはあります。それはやはりあの歌い方です。そもそもこの詞とこの曲想であれば、あんなに演歌っぽく、小節まがいの飾り付けをして悲痛な歌い方をする必要など全くないと思うのですが、ayuはなぜかあの歌い方を全く変えようとしませんね。いつも結構まともな意見を言ってくれる我が家族たちもそろって「ayuはいつから演歌歌手になったの」と批判的です。(この批判はCREA名義作品ほとんどすべてに共通しています)
わたしなどは、PVであのマリアのコスチュームをまとうくらいなら、歌い方も聖歌を歌うときのような、たとえばENYAのような歌い方の方がずっとこの曲とayuの魅力を引き立てることができると思うのですが。どんなものでしょう。
■「A Song is born」 (作曲:小室哲哉 編曲:小室哲哉)
先に発売されたKEIKOとの同名の(厳密には大文字小文字の違いあり)共演作が耳にあまり快くなかったので、何でこの作品をという思いが最初はありました。しかし一度聴いてみたら、逆にayuが何故このアルバムにこの作品を入れたかがよくわかるとともに、アルバム収録曲の中でも3つの指に入るくらいお気に入りの作品となりました。
やはり共演ということで遠慮があったのでしょうか。編曲の小室さんに対しても共演のKEIKOさんに対しても。きっと音入れ直後からどうしても納得できなくて、今回のアルバムでの全面取り直しとなったのだと思います。
この作品は著名アーティストがよくやる反戦キャンペーン曲のひとつです。じょいじょいはこの手のパフォーマンスはどうも偽善というか、単純な善悪論に終始する傾向が強いため毛嫌いしてきました。しかし今回ayuの詞に触れて、「ああ、やはりayuは違うな」と改めて感心した次第です。普通は単純に「戦争やめよう」「人類みな兄弟」的な乗りになってしまいがちですが、ayuは決してそんな真実から遠ざかり思考停止に陥るような詞を書こうとはしません。反戦も好戦も、それが自らの熟慮の中から出てきたのでなければ結局同じことなのです。立ち止まって自ら考えることがすべての出発点になることをわかってもらうこと。それがayuの良心なわけです。
この作品は、歌唱法の点でもayuのこれから進むべき道を暗示しているように思えます。すべてを柔らかく包み込む「聖母マリア」を彷彿とさせるような歌声。これは最近のayuのメジャーな歌い方とは対極にある歌い方ですが、じょいじょいにはとても心地よくきこえます。ayuが望むかどうかはわかりませんが、ayuが今後長くアーティストとして生き残っていくとしたら、きっとこういう「癒し系」の音楽のつむぎ手としてなのではないかと思うのです。
■「Dearest」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki)
「Dearest」は間違いなくayuの代表作のひとつです。それを否定する人はほとんどいないでしょう。昨年末の賞総なめの際もayuはほとんどすべてこの作品で勝負していましたから、普段ayuの歌に接することのない人たちの耳にも何度となくこの曲が流れていったに違いありません。
じょいじょいも当然の事ながら、この作品を最初に聴いたとき「SEASONS」に匹敵する代表曲になるだろうと予想しましたが、同時に売れれば売れるほど、曲想が若干単調なところが人々を飽きさせるのではという懸念も持ちました。そしてその懸念は現実のものになったように思います。そしてayuが技巧の限りを尽くして一生懸命歌い上げれば歌い上げるほど、お腹いっぱいの目の前にデコレーションケーキを丸ごと出されたときのような嬉しいけど鼻につく状態を味わわされることになるのです。
「もしもXXだったら」という仮定の話をしてもあまり意味はありませんが、もしもこの作品がCREAとD・A・Iの合作でなく、D・A・I単独の作だったとしたら、もしかしたら本当に「SEASONS」に匹敵する作品に仕上がっていたのではないかという根拠のない思いもじょいじょいにはあります。逆の言い方をすれば、曲作りにD・A・Iが参加したからこそここまでの名声を獲得できたともいえますが。これって意地悪ですかね。でも本当にこれはじょいじょいの実感です。この「Dearest」に限らず、CREAの作品の弱点はまさにそこにあるからです。
さて、詞の内容にも触れたいのですが、この作品が出た時期が時期だったので、世間ではこの詞の「お相手」は公私とも公認のあの若き恋人に違いないと考えられたに違いありません。しかしじょいじょいにはやはりここでも「お相手」はあの例の人に違いないと思いましたし、今ではそれが確信に変わっています。
しかし音楽鑑賞するのにその言葉の字義を通り越して、その裏側にある創作の舞台裏に踏み込むのは、なんだか間違っているような気もします。そうなのですが、ファンとしては単にその作品というにとどまらず、アーティストそのものにこそ興味があるものなので、必然的にそういう話に行ってしまいがちで、それも仕方がないかなと思っています。
詞の内容としては、いかにも万人受けしそうな、危機と困難を乗り越えた恋の成就の物語ですが、ayuらしい捻りに欠けているところが先程の「単調さ」という現象として現れてくるのだと思います。しかし、世のスタンダードナンバーというものは概してそういうものだし、スタンダードナンバーが必ずしも「マイベスト」にはならないというのも世の常です。
あと、ayuがこの歌を好んで歌うのは、ayuにとって非常に歌いやすい曲だということが大きいのだと思います。「Boys&Girls」や「Fly high」などといった曲では思いのほか音程をはずしたり、声が出なかったりするのに比べ、この曲は非常に安定した状態で歌い込むことができています。このギャップがあまりにも激しく、じょいじょいには不思議で仕方がありませんが、これは「SEASONS」にも言えることです。いわゆる「ayu節」でない作品に限って、ayuが最も評価されるというこの事実。別の言い方をすると、ayuが歌いたい歌を歌うことが必ずしも世間が欲していることと同じ方向ではないという事実。この事実にどう正面から向き合うかが、ayuの今後を占う上で重要な意味を持つものと思われます。それでもayuは自分の歌いたいものを歌うことに固執し続けるのか?
■「no more words」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki + tasuku)
ayuの作品は大きく、自分と「あなた」との1対1の内面的関わりを題材にしたものと、目を聴き手(みんな)や社会というものに向けて発せられたものとに分けることができます。後者は社会的影響力とその中での自分の役割というものを自覚し始めた「AUDIENCE」以降に見られるようになった新たなステージの産物といえます。「AUDIENCE」、「Duty」、「evolution」、「A Song is born」などがこの分類に入りますが、この「no more words」もやはりこの範疇に分類される作品です。直接的にはあの「世界同時多発テロ」に触発された「A song is born」で語りきれなかった部分から派生して生まれたものと考えていいと思います。そしてきわめて冷静に哲学的に人生観を語るこの作品はある意味、ayuの作品の中では異色の部類に属するといえるかもしれません。その後のツアーでの取り上げ方を見る限り、ayu自身もこの作品の出来映えには自信を持っているように見えます。
ただ個人的感想を述べさせていただくと、前半からサビに向かうところまでは文句なしの出来なのに対し、肝心のサビの部分、「敗者でいい いつだって敗者でいたいんだ」の一節には、残念ながらCREA作に共通な据わりの悪さが現れていると感じます。詞そのものについても、言いたいことはよくわかるけれども、ここで勝者と敗者の二元論を持ち出すのは誤解のもとです。また、最後の「今はこれ以上話すのはやめとくよ 言葉はそうあまりにも 時に無力だから」
というフレーズが、いかにも取って付けたようで、作品の収束のさせ方を模索する努力を途中で放棄したような印象を受け、残念でなりません。
じょいじょいの中では、「名曲になり損ねた名曲」という感じです。
■「Endless sorrow 〜gone with the wind ver.〜」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki + tasuku)
この作品はシングルとして発売当初、好きになれませんでした。この作品に底なしの暗さを感じたのと、主題歌としてタイアップしたドラマ「昔の男」のあまりの陰湿さ、そしてayuの相変わらずの悲痛な歌い方がそれをさらに助長していたためです。
その後、ドラマが終了し、そのマイナスイメージが記憶から消えて行くにつれ、この作品の持つ「美しさ」が少しずつ自覚されるようになりました。そしてそうこうするうちにこのアルバムが発表されたわけです。
ayuはこの作品をアルバムに収録するに当たって、編曲のみならず、詞と曲の両方に手を入れています。アルバム初収録の際にここまで手を入れるのは異例のことと考えていいでしょう。それだけayuはこの作品に不満を持っていたことになります。実際、いろいろな場所でayuは、この作品を作った時期が精神的にどん底にあるときだったため、ひどく厭世的になっていることを後悔する発言をしています。
ayuは詞と曲にざっくり手を入れ、絶望の果てに微かな希望の光がほの見えるようなストーリーに仕立て直しています。ここにayuの成長の跡が現れていると思います。それまでは、落ち込んでいるときは徹底的に暗い作品を、ハイなときには徹底的にポジティブな作品をというように、ころころ変わる個人的な気分をそのまま反映させた作品づくりをしていました。それがayuの作品づくりのコンセプトですらありました。しかし最近は、作品を受け止める聴き手の受け止め方や社会的影響なども考慮した作品づくりを心がけるようになってきています。
手を入れた後の詞と曲は出来映えは上々だと思います。編曲はayuの意を汲みすぎて、過剰に明るい感じで仕上げてあり、これがこのアルバムバージョンの評価を二分するでしょう。かたや「絶望の中の希望をうまく表現できておりオリジナルにさらに厚みを加えている」、かたや「妙に明るくてオリジナルのせっかくの雰囲気をぶち壊している」と。どちらも頷ける評価だと思います。じょいじょい個人は、確かに明るい方向にちょっと振れすぎている嫌いはあるとはいえ、このアルバムバージョンの方がオリジナルより好きです。今後、この新バージョンに対して、より的確にayuの意図を汲んだ新たなミックス作品が登場することを期待します。
なお、この作品ではayuの声が他の作品よりも澄んで聞こえます。これは、他の作品の音入れがツアー明けでまだ喉が荒れていたときのもので、この作品の音入れがアルバム作成の最後、喉の状態が普段に戻ってきたときになされたものだからだと予想します。そしてそれもこのアルバムバージョンを聴きやすいものにしている要因のひとつだと思います。
さきほど「A Song is born」のときに論じたayuの歌唱スタイルの今後のあるべき姿がまさにここに示されているとじょいじょいは確信します。
■「flower garden」 [シークレットトラック] (作曲:不明 編曲:不明)
正式なリリースではないので、コメントは差し控えさせていただきます。
3.最後に
『I am...』は、ayuがCREA名義で作曲を手がけるようになって初めてのアルバムです。そしてこのアルバム収録曲14曲中、実に12曲までがCREA(+α)作曲となっています。その意味でこのアルバムはayuの新たな展開を示す記念碑的な作品となっています。
ここで再び2000年元旦の新年会でのayuの発言とそれに対するじょいじょいの当時のコメントを再掲しましょう。
さて、このアルバムで、上の目標「幅広い層から支持され300万枚売り上げる」はどの程度まで達成されているでしょうか?
いま改めて聴き直してみて、詞・曲ともなかなか充実していると思います。それはこれまで見てきた通りです。ayuは創作技術の面で着実に成長していると言えるでしょう。
しかし、作品そのものの高質性と、それが一般大衆に受け入れられることとは必ずしも一致するわけではありません。ちょっと残念ではありますが。
そういえば宇多田ヒカルの最新アルバムの売り上げが発売3週間にして300万枚を突破したとのニュースが入ってきました。宇多田ヒカルが「幅広い層から支持され」ていることは疑いようのない事実でしょう。それに比べて、ayuの方は依然、10代には圧倒的な支持を受けているにもかかわらず、それ以上の世代にはなかなか食い込めていないというのが実情のようです。
詞の内容、曲の完成度は十分のように思われますし、むしろ玄人受けする内容ですらあります。では宇多田ヒカルにあってayuに無いものは何なのでしょう?
これはあくまでじょいじょいの私見でしかありませんが、大衆に受け入れられるための重要成功要因は、実は作品の技術性よりも、曲想、歌声と歌唱法、人間性やアーティストとしての姿勢にあるのではないでしょうか?(もちろん詞の内容は最重要ですが)
そして時代は「癒し」や「快さ」を求めている。また、音楽に真正面から(脇目をふらず)立ち向かう専門家としての真摯な姿勢や人間的なノーマルさ・安定度を求めている。
話がまた飛んでしまいますが、最近、中森明菜が再デビューしました。芸能生活20周年だそうです。じょいじょいも同時代を生きてきたので彼女のことはよく知っているつもりです。そしていま彼女を目の当たりにして、ayuに妙に二重写しして見えるのはじょいじょいだけでしょうか? 彼女も一時期一世を風靡したアーティストです。まさに尖ったところ、「私」というものを全面に押し出したアーティストでしたが、次第に時代から必要とされなくなっていった経緯があります。そしていま、やはり時代はそういう音楽を欲してはいないのではと思われます。(中森明菜さんを引き合いに出して、ご本人およびファンの皆さんには申し訳なく思いますが、この辺りが本当に重要なキーになっていると思われるため、敢えて言及しています)
ただ、ここで注意しておきたいのは「時代」とか「大衆」と呼んでいるものの実体はあくまで最大多数の聴き手という意味に過ぎないということです。最大多数派に受け入れられるのがすべてではないこと、悩みや壁にぶち当たっている少数派のための音楽が実は最も切実に望まれているとさえいえることを忘れてはならないと思うのです。
いずれにしても、すごく感覚的な話になりますが、ayuが「幅広い層から支持され」るようになるとすれば、それは、アルバムタイトルを『I am...』ではなく、『We are...』、『Duty』ではなく『Pleasure』と名付けることが出来る心境になったときではないかと漠然と思うじょいじょいです。
相変わらず辛口のコメントが多くなってしまいました。これはここが「ピリ辛炒め」だからというわけではありません。無理矢理重箱の隅を突ついたわけでもありません。じょいじょいが本当にそう感じるところをあるがままに書いたつもりです。そこだけは誤解しないでくださいね。
今回も長い長い文章に最後までつき合ってくれてありがとう。
この文章がayuを通して皆さんの生き方や進むべき道を考察するための触媒になれば幸いです。
その前に、これまでリリースされたオリジナルアルバムについてごく簡単な総括をしておきましょう。
1stアルバム『A Song for XX』は、専務が全力を傾けて売り出しただけあって、楽曲にも恵まれ、デビューして半年やそこらの新人が出すファーストアルバムとしては異例の質の高さ、充実ぶりを示していると思います。
もちろん、まだアーティストとしてのayuのスタンス、方向性が定まっていない時期に出されたため、どうしても玉石混淆の感は否めません。プロデューサーとしても一応、十代の新人ソロ歌手の通例にしたがい、アイドルPOP歌謡的な部分を完全に排除するだけの勇気と自信はまだなかったに違いありませんし、また楽曲の提供者たちも、ayuの特質を捉えたうえでの楽曲提供というところまでには至っていなかったため、やはり少なからずアイドルPOP歌謡的な楽曲提供を意識していたように思われます。
にもかかわらず、そこに収録された多くの作品は確かに4thアルバムが出た現在にあっても依然、珠玉の光を放っており、そのいくつかは間違いなくayuの代表作となっています。
ayuの紡ぎ出す独特の詞の世界は、決して若いアイドル歌手が話題づくりのために「ちょっとチャレンジしてみました」的に作詞を手がけたものと同列に扱うことのできない質の高さとオリジナリティに溢れています。まさに専務が感嘆したように「この娘はどういう10代を送ってきたんだろう」と思わせるものになっています。
そしてそれに、菊池一仁を始めとするいままさに花開こうとしている新進気鋭の作曲家陣・アレンジャー陣のエネルギーと天才とがあいまって、フレッシュな感動と驚きを私たちにもたらしてくれています。
何よりも、それまで言いたいことをうまく周囲とコミュニケートできなくて、心の中に長年の間、積もり積もって悲鳴を上げていたさまざまな思い、その思いを表白し解放する術を「歌」というものに見い出すことのできた喜び、そしてそれを可能にした「心の肉親」(専務とnatsukiさんのことですね)との出会いの喜びが、このアルバムを求心力のあるものにしているといえます。
次に2ndアルバム『LOVEppears』ですが、これはayuが「アーティスト」としての自分の居場所をある程度見定めることができ、ようやくうち解け信頼を寄せることのできるようになったスタッフに囲まれた中で完成された作品であり、後世に、ayuの「第1期黄金時代」を象徴する作品と称せられるだろうと思われる円熟した作品に仕上がっています。個人的にはいまのところayuのアルバムの中で最も評価する作品です。
特筆すべきは、作曲家D・A・Iとの出会いです。これが、内省的なayuのパフォーマンスに振幅と深みをもたらす結果となっています。
3rdアルバム『Duty』についてはすでにこの「ピリ辛いため」で論じました。
アーティストとしての人気と評価を獲得し、どちらかというと苦手と感じていたライブも見事に成功させた直後の作品として、このアルバムには、余裕とそこから来る実験的試みが随所に見られます。しかしその実験が少なくともじょいじょいにとっては、間違った方向での実験に感じられ、前回の3rdアルバム『Duty』のとき、私は「純粋に曲(+編曲)と詞の2点から評価すれば、非常に高得点を与えることができる」が「それだけに、歌い方と声の状態が残念で仕方ありません。ayuとしては曲に合わせて歌い方を臨機応変に変えているつもりなのでしょうが、結果的には失敗している」と論じました。そしてこの思いは今でも変わりありません。ごく簡単に総括すると、どの作品も素材(詞、曲)としては非常に芸術性の高いものを持っているにもかかわらず、ツアー終了からの制作期間があまりにも短すぎたために、シンガー(歌う楽器)としてのayuの仕上がり(回復)具合も含めて、熟成と味付けの調整が足りなかったということです。
さて、そしてこの4thアルバムです。
(なお、詞を参照したい場合は、適宜、JASRACの承認を受けた「恋人達の指輪」もしくは「ayumi-hamasaki.com」をご覧下さい)
1.構成について
このアルバムが出た当初、当サイトの談話室でも、ジャケットの意味とタイトルの構成の相関性について、さまざまな議論がなされたのを記憶しています。しかし結局私はそこに確とした意味づけを読みとることができませんでした。
ジャケットが夜明けから夕暮れまでの砂漠の一日を時系列的に描いていること、鳩が平和のシンボルであり、おそらくあのアメリカの衝撃的な同時多発テロに触発されたものであろうことは当然読みとれますが、それ以上のことをあれこれ詮索してみても、深読みのしすぎにしかならないように思えます。たとえばayuと鳩がともにいるページと鳩がいなくなったページとayuも鳩もいなくなったページにそれぞれ特別な意味があり、それがその各ページに掲載されたタイトルの説明になっているというような説です。
では、このアルバムに収録されたタイトルの順番に意味はないのでしょうか。これについてもいろいろな議論が繰り広げられた記憶がありますが、私の読みはきわめて単純です。
このアルバムは大きく3つの部分からなっています。
そしてその3つの部分が2つのInstrumental作品で区切られています。
最初のブロックは「I am...」の1曲です。これはアルバムタイトルになっていることからもわかるように、アルバムの自己紹介、序章にあたるものです。
次のブロックは、「Connected」〜「Daybreak」までで、ロック調、電子楽器系、どちらかというと「動」の作品を集めています。
そして最後のブロックは、「M」〜「Endless sorrow」までで、どちらかというとバラード調、アコースティック系、「静」の作品を集めています。
この構成が成功だったかどうかはちょっと疑問です。初めてayuの作品に接する人にとって、最初の数曲の印象は大事だと思うのですが、この構成では、ayuというアーティストの性格に偏ったフィルターが掛けられてしまう可能性があると思うからです。つまり、いきがってRockっぽく振る舞おうとしているけど全然なりきれていないJ-POPシンガーだというように。また似たような曲が続くことになるので、飽きられやすい、あるいは2曲目以降のインパクトが弱くなるという問題があります。
同種の曲をまとめるよりむしろ適当に散りばめた方がよかったと思います。
2. 各作品の評価
■「I am ...」 (作曲:CREA 編曲:Tadashi Kikuchi + tasuku)
とにかく「痛い」。この尖った痛さを聴き手に思いっきりぶつけることがこの作品の目的だとすれば、この作品は十分にその目的を達成していると思います。 ただそれを素直に受け入れられる人と、その過剰な自我の表白にちょっと引いてしまう人とに受け手がはっきり分かれるに違いありません。
この作品には、ayuの最近の作品にしばしば出てくるモチーフがやはりいくつも現れてきます。ひとつはファンや周りの人々にちゃんと「伝わ」っていない、本当の自分を解ってもらえていないという嘆き。そして、「生き急ぐ」ことから逃れられず、またそれを良しとする「滑稽」ですらある創造者としての自分、「矛盾だらけの」自分。そしてかつて「永遠」という言葉で表現しようとしたものとどこまで同じかはわからないけれども「たったひとつの言葉」を探し求める求道者としての自己の再表明。
ayuの抱える根深いトラウマについては、また別の機会に論じようと思いますが、自分の本質、本意を周囲や肉親や分かってほしい人たちにわかってもらえていないし、わかってもらえるように行動できない焦燥感とそんな自分への侮蔑、周囲との深い溝を、ayuはおそらく小さい頃からずっと抱えていて、アイドルタレントや女優になりそしていまこうやってアーティストとして活動を続けるのも、ひとつにはそういうアリ地獄から何とかして逃れたいという(無意識の)目的が根底にあるように思います。
これらの悲痛な叫びを痛々しくも共感を持って受け止めことのできる人は幸せです。そういう人たちはきっと、今を生きるayuを心底から好きなのでしょう。一方、昔からのファンの中には、熱烈なファンでありながら、いや熱烈なファンだったからこそ、「あたし、あたし、あたし、…」という自意識過剰な押し付けがましさに閉口したり、「どうか解って そんな事を言っているんじゃないの / どうか気付いて こんな物が欲しいわけじゃないの」と言う割には、自ら好んで誤解されるような行動ばかり取ってきたじゃないかと感じられる人もいるのでは?
ただ、それでも感心させられるのは、解ってもらえないとか生き急ぐだとか矛盾だらけだとかの自己表明、自己憐憫、あるいは聴き手によっては自己弁護だけにとどまることなく、最後にしっかり「私はずっとたったひとつの言葉を探してる」というayuのアーティストとしての存在理由を宣言するのを忘れないところです。この言葉が単なる流行歌手ではないayuの思索性・哲学性を浮き彫りにし、このアルバムのプロローグとしてのこの作品の価値を明確なものにしているといって過言ではないかもしれません。
そしてまた、これは本質的ではありませんが、この最後のフレーズをあたかもサイボーグかロボットのようなデフォルメされた声でとつとつと歌い上げたところがいかにもayuらしい技巧で、思わずあのTUKAのサイボーグayuのCMを思い出してしまったのは私だけではないでしょう。
■「Connected」 (作曲:Ferry Corsten 編曲:Ferry Corsten)
この作品を初めて聴いたとき、真っ先に「WHATEVER」を思い出しました。オリジナル曲自体がすでにリミックスの様相を呈していることがそうさせたのだと思いますが、それと同時に、残念ながら、曲の斬新さに比べて、詞の方が他の作品に比べると、いまひとつ掘り下げ方が足りないところも共通していると思います。
ただこの作品の出来上がった経緯を考えればそれも仕方がないことかも知れません。 この作品は作曲者のFerry Corsten(彼は世界的に有名なRemixerでもあります)がまず曲を完成させ、ayuにぜひともこの曲に詞を付けてほしいと依頼してきて、ayuがそれを快く受諾したという経緯から出来上がったものです。
その際にayuは、外国人のFerry Corstenが日本語の意味を理解できなくても分かり合えるような詞を目指しました。その結果、詞の意味よりもむしろ語感を重視し、韻を多用したあの「ミカケテ ミツケテ ミサダメテイル …」というフレーズが誕生したわけです。
しかもいかにも常識にとらわれないayuらしいといえるのですが、この詞は依頼者Ferryへの私信の役割をも果たしています。「自分たちは別々の言語を使っているけれど、それでもこうやって言葉というものを通してお互いの気持ちを伝え合い、解り合うことができるんだね−」と。そしてこれはFerryだけでなく、私たちみんなへの問いかけにもなっています。「私たちを結びつけている言葉というものを深く考えれば考えるほど増してくる、その重みと不可思議さ。みんなもちょっと考えて見ようよ」と。
これは優れて哲学的なテーマですね。そしてこの難しいテーマを何のためらいもなく作品の中心にすえてしまうのもいかにもayuらしい。そう、このアルバムのひとつの特徴は、このような抽象的なテーマやメッセージ性の強いテーマについても臆せずファンの前に提示する決断が出来るようになった点にあるといえるでしょう。この傾向は前作の「Duty」で既に芽ばえていますが、ここへきて完全に一歩踏み出したわけです。
ayuは元来、そういう抽象的な問題をあれこれ思索することを好むようです。
例えば、2000年元旦のラジオ番組での新年会で次のように発言しています。ayuのいわゆる「永遠」論のくだりです。(実際には各発言の間に、他の出演者の発言が入ります。
「だから、記憶の中なわけよ、永遠っていうのは」
「だから、記憶がない人間には、永遠はないわけよ。記憶を持ってるから、その過去があるからこそ永遠があるわけで、過去を捨てた人間には永遠っていう言葉はないわけよ」
「でしょ、そこに気付いて…。 みんなはね、永遠っていうのは未来の所有物だと思ってるわけよ」
「違うんだよ。そんなことをね、毎日家で一人で考えてるんだから。暗いでしょ?(笑)」
いろいろな情報ソースから推測するに、ayuと専務は折につけ、音楽論や人生論などについて議論を戦わせてきた形跡があります。ふたりはそういう人生の深いところで互いを理解し合う間柄として今日に至っています。その間、いろいろな理由で疎遠になったり、実際物理的に遠ざかったり、そしてまた互いを求め合い、接近したりということを繰り返してきたと思われます。
この作品はFerryへの私信になっていますが、実際には専務への私信でもあると思っています。
しかしそれにしても、詞の中で「ミカケテ ミツケテ…」の部分を除くと、メッセージはわずかに次の4行です。
「そう僕達はあらゆる全ての場所で繋がってるから」
「この言葉について考える君とだってもうすでに」
「ああ僕達がいつか永遠の眠りにつく頃までに」
「とっておきの言葉を果たしていくつ交わせるのだろう」
聴き手に人生観のいっぱい詰まったメッセージを送り届けるには余りに短すぎるというものです。結果として、斬新な音楽性にもかかわらず、詞が「私信」以上には昇華し切れていないというのがじょいじょいの実感です。
いや、むしろ、われわれはこの作品を、歌詞の意味の読みとれない海外作品に対してやるように、あくまで音楽として、耳で聴くことに徹するべきなのかもしれませんね。いつも海外作品に対してはそうやって接していて、しかも優れた作品を十分鑑賞できているわけですから。
実際、このアルバムの中でもこの作品は最も好きな曲のひとつです。初めて聴いたときから、良い意味で妙に耳にひっかかってくるのです。Ferryの卓越した作曲・編曲とayuの音域ぎりぎりのハイトーンボイスとがうまく相乗効果を出していると思います。詞は確かに重要ですが、詞の意味がなくても、音楽は十分我々を感動させてくれるという当たり前といえば当たり前のことを、この作品は実感させてくれます。
最後にひとつだけ、初めて聴いたとき抱いた期待が、その後の状況を見ると外れてしまった部分について触れておきます。
この作品を初めて聴いたとき、「WHATEVER」同様、これからたくさんのリミックス作品の「タネ」となっていくべき素材だと思われました。しかしなぜかその後、この作品のリミックスが作られたという話はとんと聞きません。これはどういうわけでしょうか? 何かFerryとの間に版権か著作権の取り決めがあるのでしょうか?
じょいじょいの勝手読みとしては、おそらく、優れた音楽性にもかかわらず、音楽的構成に少し単調なところがあり、味付けがしにくいため、rimixerから敬遠されているのではないでしょうか。そこがちょっと残念ではあります。
■「UNITE!」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
最初聴いたときには決して良いと思わなかったのに、後から評価を上げる作品というものがあるものです。じょいじょいにとってこの「UNITE!」はまさにそういう作品のひとつです。
シングルとして発売された当初から、じょいじょいにはどうしてもこの作品が我慢なりませんでした。誤解されないようにしたいのですが、わたしはこの作品の音楽性については始めから評価しているつもりです。
問題は、「自由を右手に 愛なら左手に」という手垢の染みついた常套句をサビの一番重要な部分に臆面もなく使うayuのayuらしくない無神経さ・創意工夫のなさと、プロモーションビデオやドームツアーで見せた、あのどうしても軍隊やナチスを想起させる迷彩服の一団が団結(UNITE)して拳を振り上げるシーンとにあります。
前者については、自分の言いたいことにできるだけ近い言葉をぎりぎりまで探し続ける姿勢こそがayuのayuたるところだと思うのですが、それをいとも簡単に放棄しているように見える、それがじょいじょいにはどうにも容認しがたいのです。
また後者については、これは十代の若い方々には実感がないかもしれませんが、ナチスを想起させるような服装や行為は、いま生きている多くの世代にとって、特別の意味合いを持つことにもっともっと自覚をもってほしいと思います。「過去のことは過去のことで、もういい加減に気持ちを切り替えて、未来に向かって踏み出そうよ」という意見は至極まっとうな意見ではありますが、戦後50年以上が過ぎても、拭い去ることのできないトラウマは、未だに全世界に厳然として存在しているのです。残念ですが。ayuのあのパフォーマンスが仮に反戦の意思表示として逆説的に軍隊的なイメージを取り上げているのだとしても、(私にはどうしてもそうは思えませんが)やはり人々の感情を考えれば、ああいうことを安易にやるべきではなかったと思います。
いや、たとえ上の世代の固定的なイメージがなかったとしても、あのパフォーマンスは、「私はロッカーでもありたいの。どう? ロックミュージシャンとしても一流とは思わない?」と露骨にアピールしている「いかにも」なものに見えて、あまりいい気持ちはしませんでした。じょいじょいが少々ひねくれてとらえすぎなのかもしれませんが。
そんなわけでじょいじょいにとって、「UNITE!」は最初から良い印象を持てない作品として存在するわけですが、今回、純粋に耳からのみ鑑賞してみて、この作品がCREAの作品にもかかわらず(ごめんなさい、これ、実感です)、思いのほか優れた音楽性を有していることに気がついた次第です。こうなってみると、なおさら、あの「自由を右手に 愛なら左手に」という安易なフレーズと迷彩服姿の印象が悔やまれてなりません。
最近のayuはどうもロックを自分のスタンダードナンバーにしたいという意識が強いようで、それが自分で作曲するに至ってようやく実現できる環境になってきたわけですが、 これらがなければ、この作品は一般の音楽通に対して、ayuのロックシンガーとしての新たな側面をもう少し強くアピールできたのではと思えるのです。
■「evolution」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
この作品もシングル発売当初からじょいじょいにとってあまり好きになれない作品です。そもそもこの作品が初めて世に出たのはカウントダウンライブにおいてですが、そのときの発声の曖昧さ、言葉を大切にしているとは思えない歌い方に対する反発が「刷り込み」されて現在に至っています。実際、あの場でこの歌が何を歌ったものか理解できた人はまず殆どいないのではないかと推測します。そういえば「wow yeah」を「前へ」と理解していて、後で歌詞カードを見て、初めて誤解に気づいたという人も多くいたように記憶しています。ayuは歌詞に英語を使わない主義なのにこの歌はそれを破っているといった反発の声もありましたね。「wow yeah」を英語ととるかすでに日本語と化した擬音語ととるかは、まあ微妙なところですが、本質的な議論ではないでしょう。ただ、このあまり意味のない擬音語がこの作品の至る所で繰り返されるのを聴いたとき、世間によくある通俗的なロックを想起したし、ayuはここで思考停止し、詞を紡ぎ出す作業から逃げているなと感じたものです。
詞についてもう少しコメントします。
この作品では、このかけがえのない地球、このかけがえのない生、このかけがえのない時代を「君」と共有できていることへの感謝と喜び、「生」の肯定、そしてその中でしっかり自分を持って強く生きることの大切さが語られています。しかし、ただそれだけではいかにも普通のメッセージに終始しています。そこに人がはっとするような人生観的味付けを加えるのがayuの詞の特徴だと思うのですが、どうもその味付けが欠けている。唯一、我々が生まれてくるときのいわゆる産声が、「なんだか嬉しくて」「なんだかせつなくて」泣きながら生まれてきたんだという発想が斬新ではありますが、これだけでは…というのがじょいじょいの正直な感想です。
これもじょいじょいの勝手読みですが、この作品を作った時期はちょうどayuが作詞に加えて作曲に手を出し始めた時期で、そういう音楽的実験の方に夢中になっていたことと、21世紀を迎えるという滅多に体験できないイベントの重なったカウントダウンライブに向けて、前向きの元気な曲をとにかく完成させたいとの気持ちが強かったことから、詞の方の錬成が若干手薄になってしまったのではないでしょうか。
誤解があるといけないので、付け加えておきますが、もしもライブを盛り上げる活きのいい曲を作るのが目的だとしたら、この作品は見事にその目的を達していると思います。その意味では申し分のない出来ですし、この手の作品がそれまでのayuには少ないですから、貴重な財産であることに間違いはありません。実際、 あの歌い方と詞の厚みのなさを度外視してこのアルバム収録を機会に改めて聴いてみると、「UNITE!」同様、音楽的にちょっと見直したというのが実感です。
ただ、ライブであの宇宙人のような、わざとつぶれたような声で歌われるのには個人的に大いに辟易しています……
■「Naturally」 (作曲:CREA 編曲:CMJK)
ayuがayuの「王道」を示した作品であり、このアルバムに収録された作品の中でも最も完成度の高い作品だと思います。余談ですが、この作品を初めて聴いたとき、わたしは『LOVEppears』所収の「And then」を思い出しました。そして、今のayuにもまだこのような作品が書けるんだという率直な驚きと喜びを覚えました。ayuはやっぱりayuなんだと。
音楽的には、最初聴いたとき、てっきりD・A・Iの作品だろうと思いました。ayuは非常に頭のいい人で、既存のもののエッセンスを吸収して自分のものにする力に優れていると思いますが、作曲の面でもその能力を存分に発揮しているようです。
詞のモチーフは「I am...」とだいたい同じで、やはり、創造者・探求者・アーティストとして孤独の中、がむしゃらに「生き急ぐ」日々の中でぶち当たるさまざまな矛盾、見え隠れする限界、先の見えない不安に揺れ動く心、そしてそんな矛盾と孤独を抱えたままのありのままの自分を強く生きていこうという決意、そしてそれを分からせてくれた「あなた」への感謝の気持ちを表白していますが、「I am...」よりはもっと深堀りされ、具体化されています。
このモチーフについて、この作品を初期の「Trust」あたりと比べてみるとなかなか興味深いものがあります。いずれも過去と現在の生きる不安が表現されており、それが「あなた」のおかげで新たな生の局面へと導かれたという内容になっています。しかし、初期の作品では、諦めたり卑下したり他人を傷つけるのが怖かったり周りばかり気にしていたりする弱い自分がいるのに対して、「Naturally」では目標に向かった戦いを続ける自分がいます。この3年ほどの間でayuの人生のステージは明らかに大きく前進しているのが見て取れます。しかしだからといって、矛盾や葛藤はなくなったかというとむしろ大きく深くなったかもしれません。その心の迷路に一条の光を導いてくれたのが、再び「あなた」だった−。
これはあくまでもじょいじょいの勝手な推測ですが、「Trust」のときの「あなた」と「Naturally」の「あなた」は、≪あの≫同一人物だと思います。決して最近話題の恋人ではないでしょう。
まあ、それはさておき、このアルバムの中にどうしても「ayu節」は欠くべからざるものであり、「Naturally」はそれを忠実に表現したものになっています。あまりにayuらしいところが鼻につく人もいるかもしれませんが。
■「NEVER EVER」 (作曲:CREA 編曲:CHOKKAKU)
ayuが自ら作曲を手がけ始めるようになってから、最も抵抗感の少なかったのがこの「NEVER EVER」です。この作品についてはシングルとして発売時に、このピリ辛いためで取り上げています。(2001年3月20日参照)
ノスタルジックな前奏から続く静かな導入部が全体の基軸を提示し、その後の比較的激しい主題部との対比が印象的な、ayuの持ち歌には珍しい3連符の作品です。
「もしもたったひとつだけ…」で始まる主題部が、いきなりクライマックスになっている構成に唐突な感じを受ける人もいるかもしれません。静かな導入部との間にもうひとつ何かサンドイッチとなるものがほしい気は確かにします。詞と曲の両面に、その「あともう少しの何か」が加わっていれば、この作品はもっと広い層に受け入れられるスタンダードナンバーになっていたかもしれませんね。
それを詞の面からとらえると、言説が十分に尽くし切れていないため、聴者の心に共鳴するまでに至っていない可能性があります。じょいじょいの理解する限り、この作品の主題は、
自分は「不変なもの」をずっと探し続けてきた。そしてようやく「君」の私への不変の愛を獲得したと思ったのに、それも失ってしまった。「君」の愛がなければ、自分は生きている意味がない。私の「君」への愛はいまも不変だよ。だから、もしもたったひとつだけ願いが叶うとしたら、私は、「君」の私への変わらぬ愛をもう一度くださいとお願いする。いま私から「君」へ「不変なもの」を差し出すことができる。それは「君」への変わらぬ愛。だから「君」の愛がほしい−。
ということだと思います。(ちなみにここでの「君」も、ayuの初期作品から絶望3部作を通って現在に至るまでの「君」や「あなた」と同一人物だとじょいじょいは確信しています。一度だけこのあたりの事を「ピリ辛」に書いたことがありますが、根拠の希薄な憶測に過ぎなかったのですぐに抹消しました。しかし、最近出版された『浜崎共和国』のayuのコメントを読んで、じょいじょいの理解が間違っていなかったことを確信しました)
このような作品の主題を、その背景とともに理解してようやくこの作品に共鳴できるのかもしれませんね。もしそうだとしたらやはりもう少し抽象度を落とし、適切な言葉で主題を補足した方がよかったのではと思うのです。
とはいえ、最初に言ったように、じょいじょいはCREAの作品の中では比較的好印象を持って受け入れている作品です。音楽的にも詞的にも特段の新奇性はないかもしれませんが、かわりに全体がバランスよくまとまっており、安心して聴くことのできるナンバーだと思います。ここでも歌い方と歌声への不満を除けばという但し書き付きですが。
■「still alone」 (作曲:CREA 編曲:CMJK)
「Naturally」と同じ背景を担った作品です。しかし「Naturally」では「あなた」との別れは明示的には描かれておらず、まず孤独ありきで、その孤独の中でクリエーターとして格闘する中でぶつかった壁、それを乗り越える力を「あなた」の言葉によって得ることができた、「あたし」はこれからもありのままの自分をさらけ出して孤独のなか前進していこうと決意が語られるのに対して、この「still alone」では、「君」と別れてから、「私」も同じ孤独な戦士として生きるようになって初めて、クリエーターとしての「君」のことが理解できるようになった、同じ道を共に歩いていくはずだったのにどうして「私」は「君」と別れてしまったのだろうと、あくまで「君」への後悔の念を表すことに終始しています。
どちらかというと、「Naturally」では強いayuが、この「still alone」では弱いayuが語られているといえるでしょう。
音楽面でこの作品を見てみると、もう少し編曲がどうにかならなかったかなと感じます。CREAの作品自体が若干平板なところがあるので、そこを編曲でカバーしているというのがCREA名義の作品の実情ではないかと思います。しかし、この作品については、何というか、全体にべたべたとした平板な音づくりに終始していて、曲の平板さを助長しているところがあると思うのです。(編曲のこの「べたべた」さや音の汚さは実はこのアルバム全体を通して感じる欠点なのですが)
それは特に「その夢守って行くためには 私がいちゃいけなかった」以降のサビの部分で特に顕著に感じます。詞がなかなか良いと思うので、そこが残念で仕方ありません。
それにしても、最後の「約束は覚えているの 忘れた日はないの」というフレーズはとても意味深ですね。どんな約束なのでしょう? 二人だけが知っている共通の暗号なのでしょうか?
聴き手それぞれに自分なりの「約束」を思い描いてもらおうとする技巧としての「抽象表現」ではなく、ayuと「君」にしか分からない具体的な「約束」(つまり私信)をこっそり(でもないか)詞の中に潜り込ませたayu特有の仕掛け(遊び心)ではないかなと何となく思えるのです。いや、根拠はありません。
■「Daybreak」 (作曲:CREA + D・A・I + junichi matsuda 編曲:tasuku)
この作品は3人の合作という珍しい形態をとっていますが、それぞれの作曲家の持ち味をうまく生かしたものに仕上がっていると思います。(といっても松田純一さんの持ち味はまだよく把握できていませんが)
ayuには珍しい明るくポジティブなバラード曲で、このアルバムの中でも特に好きな作品のひとつです。
内容的には、ある共通の目標に向けて歩んでいた「君」と「僕」がいまは遠く離れているけれど、心はいつもそばにいるつもりだよ、だからこれからも、あの見果てぬ夢目指して二人して歩いていこうという主旨であり、これは「Still alone」の背景とほぼ同じ構図だと思われます。ただ両者が決定的に違うのは、「Still alone」が離ればなれになっていることをネガティブにとらえ後悔の念が支配しているのに対して、この「Daybreak」では別離を前向きに受け止め、昔、ともに見つめた目標に向かって再出発しようとしているところです。
そして、こう考えると、「Still alone」の最後の「約束は覚えているの 忘れた日はないの」という一節と、「Daybreak」の最後の「いつかあの日夢見た場所へと 旅してる同志だって事を 忘れないで」とが実は同じことを言っているのではないか、そしてそれは音楽の世界において永遠に残る作品を作り上げるという目標なのではないかという仮説を立てることもできます。まあ単なる一仮説ではありますが。
作詞の技術の面から見ると、この作品でも、ayuらしい思索性・思想性のあるフレーズがそこかしこに散りばめられ、抜群の冴えを見せています。具体的には
きっと光と影なんて
同じようなもので
少し目を閉じればほらね
おのずと見えるさ
とか
全ては偶然なんかじゃなく
全ては必然なコトばかり
かも知れない
などは涙もののフレーズですね。(最後に「かも知れない」を付け加えたところも憎い限りです)
ところでこの作品は、アルバムに収録されたあとに、リカット・シングルとして発売されましたが、そのときにMixを大幅に変えていますね。シングル版の方は、より憂いを込めたアレンジになっていますが、確かにこのアルバムバージョンの欠点は、徹底的にポジティブだという点かもしれません。実際、初めてアルバムでこの曲を聴いたとき、味付けとしてもう少しマイナーな部分もあった方が、全体が引き締まるのになあと感じたものです。しかし、シングルバージョンの「Daybreak」は逆に「憂い」が過剰になっており、じょいじょいの個人的な好みからすると、このアルバムバージョンの壮大な感じの方が好きです。
より微妙な匙(さじ)加減の効いたリミックス曲の出現をぜひとも待ちたいという気持ちが大です。
■「M」 (作曲:CREA 編曲:H.A.L)
この作品もそうなのですが、ayuの作曲する最近の作品は、総じて、発表当初よりも、後になってから、その音楽的な価値を理解できるようになるものが多いように思われます。これはどうしてなのでしょう?
きわめて好意的に解釈すれば、ayuの音楽的な先進性に我々がすぐにはついていけていないともいえるかもしれませんが、じょいじょいはそこまで肯定的にとらえることはできていません。ayuの音づくりが世間的な音づくりの「常識」から若干はずれたところでなされており、既存の音楽に慣らされた者にはそれがどうも拭いがたい違和感として立ちはだかるように思えます。そしてその違和感が何度も聞いているうちに慣れてきて、だんだん薄まっていくのだと思います。しかし慣れることによって違和感を感じなくなるということと、その作品が既成概念を打破する新時代の音楽だということとは全く別次元の話です。
真に時代を変える音楽は、やはり既成概念を打ち破るものを持っていますが、同時にそれはそれを初めて聴いた者に即座に「あっ!」と思わせるだけの圧倒的な説得力、まさに「目から鱗」を落とす力を持っているものです。自分の「常識」が実は作られた「常識」であることを直感的に気づかせ衝撃を与えてくれるものこそ、一時代を築く音楽といえるでしょう。その点からすると、ayuの作曲する作品の「違和感」は、どうしても「違和感」という所にとどまっているように感じられるのです。
ただ、私は何という意地悪をしているのでしょう?
この1年や2年の間に作曲を手がけるようになった者の作品を、一時代を築いた数少ない偉大な作品を引き合いに出して論ずるのは余りにも酷というものです。「ayuが作曲? そんな甘いもんじゃないよ」と言っていたことを考えれば、ayuは思いの外よくやっていると思います。何よりも感心するのは、既成の概念にとらわれずそれを乗り越えていこうというayuの明確な意志がそこに感じられることです。ayuは無知で「違和感」を残しているのではなく、意識的に「違和感」を作っていると思います。ただ先程も言ったように、それがもう一皮むけていないのが現在の状態だと思うのです。
ちょっと総論ぽくなってきたので、ここで話を「M」に戻しましょう。
この作品は作曲、作詞とも、ayuが自ら手がけた最初の作品になります。この作品については、発表された直後の2000年12月13日付けの「本日のひとりごと」の中で次のように書きました。
「 入荷日にayuのCDを買わなかったのは久しぶりのような気がする。今日も買うかどうかわからない。理由は簡単だ。テレビで聴いた「M」が残念ながら作品として水準に達していないと感じたからだ。特に楽曲の完成度が全般に低いのと、いつものような詞と曲の絶妙のおさまりの良さが今回に限っては欠けているように思える」
この発言を巡って、「水準」とは何か、そんな絶対的なものは存在するのかといった議論が巻き起こった記憶があります。しかしこの思いは基本的に今も変わりなく持っています。この作品の音楽的常道を無視した座りの悪さは、旧習を破壊する革命者としての逸脱にまでは達してなく、ただ音楽的な常識を知らないが故のものだと。そしてその思いは、雑誌「Rockin' on Japan」誌上でのayu自身の発言「またなんかいきなりこう、素人ちっくなというか、自分には凄くそういう風に聞こえるんだよね。なんかこう……自信は全くなかった。(中略)歌入れ終わって聴くと、『はぁ〜』って。『大丈夫かな?』ってもうしつこいくらい聴いてた」「あの作品はそんなに売れる感じじゃなかったと今も思ってる。(中略)あんなに売れちゃいけないと思ってた」(2001年4月号72〜73ページ)という発言によって、裏打ちされたと思っています。
ただ不思議なもので、さんざん聞き慣れてみると、これもありかなと思えてくるものです。もう少しアレンジをうまくやれば、逆に斬新な作品として輝きを保つものになるかもしれないと。
そうは言っても、どうしても納得できないところはあります。それはやはりあの歌い方です。そもそもこの詞とこの曲想であれば、あんなに演歌っぽく、小節まがいの飾り付けをして悲痛な歌い方をする必要など全くないと思うのですが、ayuはなぜかあの歌い方を全く変えようとしませんね。いつも結構まともな意見を言ってくれる我が家族たちもそろって「ayuはいつから演歌歌手になったの」と批判的です。(この批判はCREA名義作品ほとんどすべてに共通しています)
わたしなどは、PVであのマリアのコスチュームをまとうくらいなら、歌い方も聖歌を歌うときのような、たとえばENYAのような歌い方の方がずっとこの曲とayuの魅力を引き立てることができると思うのですが。どんなものでしょう。
■「A Song is born」 (作曲:小室哲哉 編曲:小室哲哉)
先に発売されたKEIKOとの同名の(厳密には大文字小文字の違いあり)共演作が耳にあまり快くなかったので、何でこの作品をという思いが最初はありました。しかし一度聴いてみたら、逆にayuが何故このアルバムにこの作品を入れたかがよくわかるとともに、アルバム収録曲の中でも3つの指に入るくらいお気に入りの作品となりました。
やはり共演ということで遠慮があったのでしょうか。編曲の小室さんに対しても共演のKEIKOさんに対しても。きっと音入れ直後からどうしても納得できなくて、今回のアルバムでの全面取り直しとなったのだと思います。
この作品は著名アーティストがよくやる反戦キャンペーン曲のひとつです。じょいじょいはこの手のパフォーマンスはどうも偽善というか、単純な善悪論に終始する傾向が強いため毛嫌いしてきました。しかし今回ayuの詞に触れて、「ああ、やはりayuは違うな」と改めて感心した次第です。普通は単純に「戦争やめよう」「人類みな兄弟」的な乗りになってしまいがちですが、ayuは決してそんな真実から遠ざかり思考停止に陥るような詞を書こうとはしません。反戦も好戦も、それが自らの熟慮の中から出てきたのでなければ結局同じことなのです。立ち止まって自ら考えることがすべての出発点になることをわかってもらうこと。それがayuの良心なわけです。
この作品は、歌唱法の点でもayuのこれから進むべき道を暗示しているように思えます。すべてを柔らかく包み込む「聖母マリア」を彷彿とさせるような歌声。これは最近のayuのメジャーな歌い方とは対極にある歌い方ですが、じょいじょいにはとても心地よくきこえます。ayuが望むかどうかはわかりませんが、ayuが今後長くアーティストとして生き残っていくとしたら、きっとこういう「癒し系」の音楽のつむぎ手としてなのではないかと思うのです。
■「Dearest」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki)
「Dearest」は間違いなくayuの代表作のひとつです。それを否定する人はほとんどいないでしょう。昨年末の賞総なめの際もayuはほとんどすべてこの作品で勝負していましたから、普段ayuの歌に接することのない人たちの耳にも何度となくこの曲が流れていったに違いありません。
じょいじょいも当然の事ながら、この作品を最初に聴いたとき「SEASONS」に匹敵する代表曲になるだろうと予想しましたが、同時に売れれば売れるほど、曲想が若干単調なところが人々を飽きさせるのではという懸念も持ちました。そしてその懸念は現実のものになったように思います。そしてayuが技巧の限りを尽くして一生懸命歌い上げれば歌い上げるほど、お腹いっぱいの目の前にデコレーションケーキを丸ごと出されたときのような嬉しいけど鼻につく状態を味わわされることになるのです。
「もしもXXだったら」という仮定の話をしてもあまり意味はありませんが、もしもこの作品がCREAとD・A・Iの合作でなく、D・A・I単独の作だったとしたら、もしかしたら本当に「SEASONS」に匹敵する作品に仕上がっていたのではないかという根拠のない思いもじょいじょいにはあります。逆の言い方をすれば、曲作りにD・A・Iが参加したからこそここまでの名声を獲得できたともいえますが。これって意地悪ですかね。でも本当にこれはじょいじょいの実感です。この「Dearest」に限らず、CREAの作品の弱点はまさにそこにあるからです。
さて、詞の内容にも触れたいのですが、この作品が出た時期が時期だったので、世間ではこの詞の「お相手」は公私とも公認のあの若き恋人に違いないと考えられたに違いありません。しかしじょいじょいにはやはりここでも「お相手」はあの例の人に違いないと思いましたし、今ではそれが確信に変わっています。
しかし音楽鑑賞するのにその言葉の字義を通り越して、その裏側にある創作の舞台裏に踏み込むのは、なんだか間違っているような気もします。そうなのですが、ファンとしては単にその作品というにとどまらず、アーティストそのものにこそ興味があるものなので、必然的にそういう話に行ってしまいがちで、それも仕方がないかなと思っています。
詞の内容としては、いかにも万人受けしそうな、危機と困難を乗り越えた恋の成就の物語ですが、ayuらしい捻りに欠けているところが先程の「単調さ」という現象として現れてくるのだと思います。しかし、世のスタンダードナンバーというものは概してそういうものだし、スタンダードナンバーが必ずしも「マイベスト」にはならないというのも世の常です。
あと、ayuがこの歌を好んで歌うのは、ayuにとって非常に歌いやすい曲だということが大きいのだと思います。「Boys&Girls」や「Fly high」などといった曲では思いのほか音程をはずしたり、声が出なかったりするのに比べ、この曲は非常に安定した状態で歌い込むことができています。このギャップがあまりにも激しく、じょいじょいには不思議で仕方がありませんが、これは「SEASONS」にも言えることです。いわゆる「ayu節」でない作品に限って、ayuが最も評価されるというこの事実。別の言い方をすると、ayuが歌いたい歌を歌うことが必ずしも世間が欲していることと同じ方向ではないという事実。この事実にどう正面から向き合うかが、ayuの今後を占う上で重要な意味を持つものと思われます。それでもayuは自分の歌いたいものを歌うことに固執し続けるのか?
■「no more words」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki + tasuku)
ayuの作品は大きく、自分と「あなた」との1対1の内面的関わりを題材にしたものと、目を聴き手(みんな)や社会というものに向けて発せられたものとに分けることができます。後者は社会的影響力とその中での自分の役割というものを自覚し始めた「AUDIENCE」以降に見られるようになった新たなステージの産物といえます。「AUDIENCE」、「Duty」、「evolution」、「A Song is born」などがこの分類に入りますが、この「no more words」もやはりこの範疇に分類される作品です。直接的にはあの「世界同時多発テロ」に触発された「A song is born」で語りきれなかった部分から派生して生まれたものと考えていいと思います。そしてきわめて冷静に哲学的に人生観を語るこの作品はある意味、ayuの作品の中では異色の部類に属するといえるかもしれません。その後のツアーでの取り上げ方を見る限り、ayu自身もこの作品の出来映えには自信を持っているように見えます。
ただ個人的感想を述べさせていただくと、前半からサビに向かうところまでは文句なしの出来なのに対し、肝心のサビの部分、「敗者でいい いつだって敗者でいたいんだ」の一節には、残念ながらCREA作に共通な据わりの悪さが現れていると感じます。詞そのものについても、言いたいことはよくわかるけれども、ここで勝者と敗者の二元論を持ち出すのは誤解のもとです。また、最後の「今はこれ以上話すのはやめとくよ 言葉はそうあまりにも 時に無力だから」
というフレーズが、いかにも取って付けたようで、作品の収束のさせ方を模索する努力を途中で放棄したような印象を受け、残念でなりません。
じょいじょいの中では、「名曲になり損ねた名曲」という感じです。
■「Endless sorrow 〜gone with the wind ver.〜」 (作曲:CREA + D・A・I 編曲:Naoto Suzuki + tasuku)
この作品はシングルとして発売当初、好きになれませんでした。この作品に底なしの暗さを感じたのと、主題歌としてタイアップしたドラマ「昔の男」のあまりの陰湿さ、そしてayuの相変わらずの悲痛な歌い方がそれをさらに助長していたためです。
その後、ドラマが終了し、そのマイナスイメージが記憶から消えて行くにつれ、この作品の持つ「美しさ」が少しずつ自覚されるようになりました。そしてそうこうするうちにこのアルバムが発表されたわけです。
ayuはこの作品をアルバムに収録するに当たって、編曲のみならず、詞と曲の両方に手を入れています。アルバム初収録の際にここまで手を入れるのは異例のことと考えていいでしょう。それだけayuはこの作品に不満を持っていたことになります。実際、いろいろな場所でayuは、この作品を作った時期が精神的にどん底にあるときだったため、ひどく厭世的になっていることを後悔する発言をしています。
ayuは詞と曲にざっくり手を入れ、絶望の果てに微かな希望の光がほの見えるようなストーリーに仕立て直しています。ここにayuの成長の跡が現れていると思います。それまでは、落ち込んでいるときは徹底的に暗い作品を、ハイなときには徹底的にポジティブな作品をというように、ころころ変わる個人的な気分をそのまま反映させた作品づくりをしていました。それがayuの作品づくりのコンセプトですらありました。しかし最近は、作品を受け止める聴き手の受け止め方や社会的影響なども考慮した作品づくりを心がけるようになってきています。
手を入れた後の詞と曲は出来映えは上々だと思います。編曲はayuの意を汲みすぎて、過剰に明るい感じで仕上げてあり、これがこのアルバムバージョンの評価を二分するでしょう。かたや「絶望の中の希望をうまく表現できておりオリジナルにさらに厚みを加えている」、かたや「妙に明るくてオリジナルのせっかくの雰囲気をぶち壊している」と。どちらも頷ける評価だと思います。じょいじょい個人は、確かに明るい方向にちょっと振れすぎている嫌いはあるとはいえ、このアルバムバージョンの方がオリジナルより好きです。今後、この新バージョンに対して、より的確にayuの意図を汲んだ新たなミックス作品が登場することを期待します。
なお、この作品ではayuの声が他の作品よりも澄んで聞こえます。これは、他の作品の音入れがツアー明けでまだ喉が荒れていたときのもので、この作品の音入れがアルバム作成の最後、喉の状態が普段に戻ってきたときになされたものだからだと予想します。そしてそれもこのアルバムバージョンを聴きやすいものにしている要因のひとつだと思います。
さきほど「A Song is born」のときに論じたayuの歌唱スタイルの今後のあるべき姿がまさにここに示されているとじょいじょいは確信します。
■「flower garden」 [シークレットトラック] (作曲:不明 編曲:不明)
正式なリリースではないので、コメントは差し控えさせていただきます。
3.最後に
『I am...』は、ayuがCREA名義で作曲を手がけるようになって初めてのアルバムです。そしてこのアルバム収録曲14曲中、実に12曲までがCREA(+α)作曲となっています。その意味でこのアルバムはayuの新たな展開を示す記念碑的な作品となっています。
ここで再び2000年元旦の新年会でのayuの発言とそれに対するじょいじょいの当時のコメントを再掲しましょう。
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さて、このアルバムで、上の目標「幅広い層から支持され300万枚売り上げる」はどの程度まで達成されているでしょうか?
いま改めて聴き直してみて、詞・曲ともなかなか充実していると思います。それはこれまで見てきた通りです。ayuは創作技術の面で着実に成長していると言えるでしょう。
しかし、作品そのものの高質性と、それが一般大衆に受け入れられることとは必ずしも一致するわけではありません。ちょっと残念ではありますが。
そういえば宇多田ヒカルの最新アルバムの売り上げが発売3週間にして300万枚を突破したとのニュースが入ってきました。宇多田ヒカルが「幅広い層から支持され」ていることは疑いようのない事実でしょう。それに比べて、ayuの方は依然、10代には圧倒的な支持を受けているにもかかわらず、それ以上の世代にはなかなか食い込めていないというのが実情のようです。
詞の内容、曲の完成度は十分のように思われますし、むしろ玄人受けする内容ですらあります。では宇多田ヒカルにあってayuに無いものは何なのでしょう?
これはあくまでじょいじょいの私見でしかありませんが、大衆に受け入れられるための重要成功要因は、実は作品の技術性よりも、曲想、歌声と歌唱法、人間性やアーティストとしての姿勢にあるのではないでしょうか?(もちろん詞の内容は最重要ですが)
そして時代は「癒し」や「快さ」を求めている。また、音楽に真正面から(脇目をふらず)立ち向かう専門家としての真摯な姿勢や人間的なノーマルさ・安定度を求めている。
話がまた飛んでしまいますが、最近、中森明菜が再デビューしました。芸能生活20周年だそうです。じょいじょいも同時代を生きてきたので彼女のことはよく知っているつもりです。そしていま彼女を目の当たりにして、ayuに妙に二重写しして見えるのはじょいじょいだけでしょうか? 彼女も一時期一世を風靡したアーティストです。まさに尖ったところ、「私」というものを全面に押し出したアーティストでしたが、次第に時代から必要とされなくなっていった経緯があります。そしていま、やはり時代はそういう音楽を欲してはいないのではと思われます。(中森明菜さんを引き合いに出して、ご本人およびファンの皆さんには申し訳なく思いますが、この辺りが本当に重要なキーになっていると思われるため、敢えて言及しています)
ただ、ここで注意しておきたいのは「時代」とか「大衆」と呼んでいるものの実体はあくまで最大多数の聴き手という意味に過ぎないということです。最大多数派に受け入れられるのがすべてではないこと、悩みや壁にぶち当たっている少数派のための音楽が実は最も切実に望まれているとさえいえることを忘れてはならないと思うのです。
いずれにしても、すごく感覚的な話になりますが、ayuが「幅広い層から支持され」るようになるとすれば、それは、アルバムタイトルを『I am...』ではなく、『We are...』、『Duty』ではなく『Pleasure』と名付けることが出来る心境になったときではないかと漠然と思うじょいじょいです。
相変わらず辛口のコメントが多くなってしまいました。これはここが「ピリ辛炒め」だからというわけではありません。無理矢理重箱の隅を突ついたわけでもありません。じょいじょいが本当にそう感じるところをあるがままに書いたつもりです。そこだけは誤解しないでくださいね。
今回も長い長い文章に最後までつき合ってくれてありがとう。
この文章がayuを通して皆さんの生き方や進むべき道を考察するための触媒になれば幸いです。
2002年05月18日
TeamAyu、そして情報の値段
じょいじょいは当然のことながらファンクラブ"TeamAyu"の会員だった。「だった」と過去形になっているのは1年ほど前に「会員資格停止」扱いになったまま会員期間が終了してしまったからだ。
どうしてそんなことになってしまったか、当時からの常連さんなら察しがつくかもしれない。じょいじょいが勇み足でTeamAyuのBBSへのayuのカキコをこのサイトに転載してしまったからだ。
じょいじょいには甘えがあったかもしれない。あるいはタカをくくっていた。いくらエイベックスといえども、これだけ熱心にayuを応援しているサイトで、勇み足で一度くらいファンクラブ規約を破ってしまったとしても、せいぜい警告くらいですむだろうと。警告されたら転載文を削除すればいいやと。
ところが無情にもエイベックスは最初のメールでファンクラブ会員資格の停止を通達してきて、有無を言わさず、即日それは実行された。1年分の会費を払い込んで間もない時期だった。もちろん会費の払い戻しなどない。
以下、参考のためにエイベックスからのメールの一部を掲載する。
無断転載につきまして御連絡させていただきました
TeamAyuのコンテンツの無断転載は、TeamAyuの入会規約および会員規約違反となりますのでXX様の会員資格を停止させていただきます。
なお、会員資格の復活に関しては、XX様のご意見をお伺いした上で審査委員会において、審査を行い会員資格の無期限停止あるいは復活かが決定されることになります。
なお、この決定に関して不服の場合には、入会規約および会員規約でうたっております通り、双方の協議を行いますが、その協議により解決しない場合、
決定は、東京地方裁判所または東京簡易裁判所第一審の専属管轄裁判所とします。
じょいじょいはもちろんすぐにお詫びと、今回の行動がayuを思うあまりの勇み足だったことを弁解するメールを出して、会員資格の復活を懇願した。
エイベックスからの回答はなく、2ヶ月過ぎてもいっこうに復活の兆しがないので再度懇願のメールを出すと、このサイトにラジオ番組の音源の2次使用や画像の配付などの履歴が、引き続き公開されており、著作権保護の観点から再考しない限り、会員資格の復活はない旨の回答が返ってきた。
じょいじょいは、てっきりTeamAyuからのayuカキコの他サイトへの無断転載という行為が糾弾されていると思っていたので、会員資格復活の条件に、まさか自分の管理するサイトの見直しが挙げられているとはそのときまで思いもよらなかった。
とはいえ、このまま会員資格を無期限剥奪されるのは困るという一心で、それまで当サイトの売りのひとつだったTVのキャプチャー画像やMP3配信を「著作権保護の観点」からすべて削除したのだった。そして今日に至るわけだが、そう、我がサイトは見事に「著作権保護の観点」から優良なファンサイトに変身したわけだが、結局会員資格は停止されたまま、その後もエイベックスからは何も通達はなかった。以前のメールで言う「審査委員会」なるものが開かれたかどうかもわからない。
***
じょいじょいが会員規約を破ったのは事実であり、それを弁解することは一切できない。完全にじょいじょいが悪いのである。それは認めた上で、以下で私の考えを述べたい。
ファンクラブで会員限定の各種サービスを提供するのは良い。チケット先行販売や、TV収録の観覧募集、壁紙ダウンロードなどなど。会員は年間数千円の会費を払うのだからそれだけ差別化が図られて当然だ。
しかし、差別化が図られるべきでないものも存在すると思うのだ。それはたとえばayuからのメッセージ、あるいはayuへのメッセージ。
ayuは誰にメッセージを伝えているのだろう。ファンクラブの会員限定だろうか? まさかそんなことはないはずだ。また、ファンクラブに入っていないファンは会員のファンよりもayuのファンとしてのランクが下なのだろうか? まさか!
同様に、ayuに関する各種最新情報も差別化を図るべきでないものだとじょいじょいは確信する。
情報などというものは所詮「事実」であり、穴のあいた風船のように、いくら抑えていてもどこかから漏れ出て広まってしまい、いつのまにかみんなの共有財産になるのだ。プライバシーは別として、アーティストの普通の最新情報など、そもそもオープンであるべきで、そこにお金の差を付けるなどというのは、いかにも「せこい」やり方だと思う。事実、ファンクラブ限定情報などといっても、会員の口から口伝えで、あるいは携帯経由で、電子メール経由で、情報はどんどん広がっていく。この情報公開の時代に、たかが一アーティストの通常活動の最新情報などを囲い込むなど、なんと時代に逆行する行為だろう。
だから、じょいじょいは、少なくともayuのBBSはファンクラブではなく通常の公式BBS一本であるべきだし、CDリリースやコンサートなどの最新情報も解禁日をファンクラブと一般の2段階に設定すべきではないと主張したい。そういう意味で、Hikkiのメッセージが誰でも見ることができる公式サイトに置いてある見識には大いに納得できる。
なお、ファンクラブでの限定の理由付けに、情報の不法使用や嵐による攻撃などへの歯止めになるということを挙げる意見をよく見かけるが、歯止めを会費(お金)に担わせるのは本末転倒ではないか。確かにお金という敷居はくだらない嵐を寄せ付けない結果をもたらすが、そのために一般の良識ある熱烈なファンにお金という「踏み絵」を課すのはどんなものか。小学生中学生ファンも多いし、年間5、6000円を簡単には出せない人も多いはず。ファンとしての熱意で差を付けられるならまだ納得ができるが、お金は熱意とはずいぶん隔たりのある概念だと思う。
またそもそも情報の不法使用その他の歯止めになっているかどうかもはなはだ疑わしい。オークション狙いのチケットの安価での入手を目的とした入会など、一度のチケット入手で投資額は十分ペイするのだから。
最後に誤解のないように繰り返しておく。
じょいじょいはファンクラブの存在自体を否定しているのではないし、ファンクラブ限定のサービスを否定しているわけでもない。しかし、限定する対象のアイテムについては再考の余地があると思う。特にayuからのメッセージやayuに関する最新情報提供については、ファンクラブ限定にすべきではなく、ayuファンすべてに平等に公開すべきものだと言いたい。
長文を最後まで読んでくれてありがとう。
どうしてそんなことになってしまったか、当時からの常連さんなら察しがつくかもしれない。じょいじょいが勇み足でTeamAyuのBBSへのayuのカキコをこのサイトに転載してしまったからだ。
じょいじょいには甘えがあったかもしれない。あるいはタカをくくっていた。いくらエイベックスといえども、これだけ熱心にayuを応援しているサイトで、勇み足で一度くらいファンクラブ規約を破ってしまったとしても、せいぜい警告くらいですむだろうと。警告されたら転載文を削除すればいいやと。
ところが無情にもエイベックスは最初のメールでファンクラブ会員資格の停止を通達してきて、有無を言わさず、即日それは実行された。1年分の会費を払い込んで間もない時期だった。もちろん会費の払い戻しなどない。
以下、参考のためにエイベックスからのメールの一部を掲載する。
無断転載につきまして御連絡させていただきました
TeamAyuのコンテンツの無断転載は、TeamAyuの入会規約および会員規約違反となりますのでXX様の会員資格を停止させていただきます。
なお、会員資格の復活に関しては、XX様のご意見をお伺いした上で審査委員会において、審査を行い会員資格の無期限停止あるいは復活かが決定されることになります。
なお、この決定に関して不服の場合には、入会規約および会員規約でうたっております通り、双方の協議を行いますが、その協議により解決しない場合、
決定は、東京地方裁判所または東京簡易裁判所第一審の専属管轄裁判所とします。
じょいじょいはもちろんすぐにお詫びと、今回の行動がayuを思うあまりの勇み足だったことを弁解するメールを出して、会員資格の復活を懇願した。
エイベックスからの回答はなく、2ヶ月過ぎてもいっこうに復活の兆しがないので再度懇願のメールを出すと、このサイトにラジオ番組の音源の2次使用や画像の配付などの履歴が、引き続き公開されており、著作権保護の観点から再考しない限り、会員資格の復活はない旨の回答が返ってきた。
じょいじょいは、てっきりTeamAyuからのayuカキコの他サイトへの無断転載という行為が糾弾されていると思っていたので、会員資格復活の条件に、まさか自分の管理するサイトの見直しが挙げられているとはそのときまで思いもよらなかった。
とはいえ、このまま会員資格を無期限剥奪されるのは困るという一心で、それまで当サイトの売りのひとつだったTVのキャプチャー画像やMP3配信を「著作権保護の観点」からすべて削除したのだった。そして今日に至るわけだが、そう、我がサイトは見事に「著作権保護の観点」から優良なファンサイトに変身したわけだが、結局会員資格は停止されたまま、その後もエイベックスからは何も通達はなかった。以前のメールで言う「審査委員会」なるものが開かれたかどうかもわからない。
***
じょいじょいが会員規約を破ったのは事実であり、それを弁解することは一切できない。完全にじょいじょいが悪いのである。それは認めた上で、以下で私の考えを述べたい。
ファンクラブで会員限定の各種サービスを提供するのは良い。チケット先行販売や、TV収録の観覧募集、壁紙ダウンロードなどなど。会員は年間数千円の会費を払うのだからそれだけ差別化が図られて当然だ。
しかし、差別化が図られるべきでないものも存在すると思うのだ。それはたとえばayuからのメッセージ、あるいはayuへのメッセージ。
ayuは誰にメッセージを伝えているのだろう。ファンクラブの会員限定だろうか? まさかそんなことはないはずだ。また、ファンクラブに入っていないファンは会員のファンよりもayuのファンとしてのランクが下なのだろうか? まさか!
同様に、ayuに関する各種最新情報も差別化を図るべきでないものだとじょいじょいは確信する。
情報などというものは所詮「事実」であり、穴のあいた風船のように、いくら抑えていてもどこかから漏れ出て広まってしまい、いつのまにかみんなの共有財産になるのだ。プライバシーは別として、アーティストの普通の最新情報など、そもそもオープンであるべきで、そこにお金の差を付けるなどというのは、いかにも「せこい」やり方だと思う。事実、ファンクラブ限定情報などといっても、会員の口から口伝えで、あるいは携帯経由で、電子メール経由で、情報はどんどん広がっていく。この情報公開の時代に、たかが一アーティストの通常活動の最新情報などを囲い込むなど、なんと時代に逆行する行為だろう。
だから、じょいじょいは、少なくともayuのBBSはファンクラブではなく通常の公式BBS一本であるべきだし、CDリリースやコンサートなどの最新情報も解禁日をファンクラブと一般の2段階に設定すべきではないと主張したい。そういう意味で、Hikkiのメッセージが誰でも見ることができる公式サイトに置いてある見識には大いに納得できる。
なお、ファンクラブでの限定の理由付けに、情報の不法使用や嵐による攻撃などへの歯止めになるということを挙げる意見をよく見かけるが、歯止めを会費(お金)に担わせるのは本末転倒ではないか。確かにお金という敷居はくだらない嵐を寄せ付けない結果をもたらすが、そのために一般の良識ある熱烈なファンにお金という「踏み絵」を課すのはどんなものか。小学生中学生ファンも多いし、年間5、6000円を簡単には出せない人も多いはず。ファンとしての熱意で差を付けられるならまだ納得ができるが、お金は熱意とはずいぶん隔たりのある概念だと思う。
またそもそも情報の不法使用その他の歯止めになっているかどうかもはなはだ疑わしい。オークション狙いのチケットの安価での入手を目的とした入会など、一度のチケット入手で投資額は十分ペイするのだから。
最後に誤解のないように繰り返しておく。
じょいじょいはファンクラブの存在自体を否定しているのではないし、ファンクラブ限定のサービスを否定しているわけでもない。しかし、限定する対象のアイテムについては再考の余地があると思う。特にayuからのメッセージやayuに関する最新情報提供については、ファンクラブ限定にすべきではなく、ayuファンすべてに平等に公開すべきものだと言いたい。
長文を最後まで読んでくれてありがとう。
2002年05月17日
CDLの「暴言」?騒動について
まわりもようやく平静を取り戻したようなので、今回の騒動に関するじょいじょいの見解をまとめておきたいと思います。
ファンにもいろいろなタイプがあります。そして何に期待してコンサートに行くかも人それぞれです。
とにかくayuと一緒にその場を盛り上げ、燃焼し尽くしたいという者もいれば、アーティストとしてのayuの紡ぎ出す、自室のCDでは得られない臨場感溢れる感動的な歌声にじっくり浸りたいと思って来る者もいます。スタンディングでayuの動きに合わせて飛び跳ねたり腕を頭上に上げて手拍子を打ったりすることに何の抵抗もない人もいれば、照れくさくてどうしてもできない人もいます。もちろん健常者もいれば足の不自由な人もいます。そして当然のことながらそれらの間にファンとしての優劣も思いの深さも真剣さも違いはありません。生身のayuを間近で見たい、触れ合いたいという思いの強さにも違いはありません。
じょいじょいはというと、「じっくり聴きたい派」であり、「恥ずかしくてモジモジ」派です。ayuの最初の全国ツアーの際も、じょいじょいは立たないつもりで会場に向かいました。それでもayuのファンであることにおいては誰にも負けないという自負がありました。結局は、前の席の人たちが立ったことによってステージ上のayuの姿が見えなくなってしまったため、やむを得ず最初から最後まで立ち続けることになってしまったのですが。
手拍子やウエーブその他のアクションについてもやはりつきあうつもりはありませんでした。が、こちらもその意志を貫徹するだけの勇気もなかったので、結局は嫌々みんなに合わせて行動する結果となりました。(それでもトラウマダンスはさすがにできませんでした) 信じられないくらいの照れ屋なものだから、たかが手拍子やウェーブとはいえ、極度の緊張のため、ayuの歌に十分没頭することができなかったのが今でも残念でなりません。ちなみにそのときのじょいじょいの席はアリーナ席中央やや右寄りの前から9列目、比較的ayuに近い場所でした。
次のコンサートだったかその次だったか、やはり立たないで済むなら座ったままじっくりayuのパフォーマンスに見入り聴き入りたいと思いながらも、これまで同様、立ってみんなと行動をともにするはめになってしまったのですが、このとき、何とayuが今回と同様の趣旨の発言をしました。
じょいじょいはそのとき耳を疑いました。それまでじょいじょいは「ayuは物のわかったアーティストだから、じょいじょいのようなじっくりアーティストのパフォーマンスに聴き入りたいというファンの気持ち、アーティストを≪アーティスト≫として真っ正面から受け止め感動を存分に享受したいと願っているファンの真摯な気持ちを十分理解してくれるはずだし、座っていることに対して文句を言うどころかむしろ、 『座ってじっくり聴いてください』とさえ言ってくれるに違いない」とまで信じていました。そしてそういうayuの「あたたかい理解」が多勢に無勢の中の唯一の「よすが」ですらあったのです。ちょっと大袈裟ですが。
ところが残念ながらそうではなかったようです。じょいじょいはいまでもそのときのことをよく覚えています。全身にひんやりしたものが駆けめぐる感覚を。そして自分が不当におとしめられている、あるいは自分の熱い思いが全く理解されていなかったという失望感で、いたたまれない気持ちに陥ったことを。それからコンサートが終わるまで、本当に針のむしろにいるような心の状態でした。
「ああ、ayuはまだまだ≪アーティスト≫ではないんだな」 それがそのときのじょいじょいの感想です。いや、何がアーティストで何がアーティストでないという議論をここでするつもりはありません。「私」は「そう感じた」のであり、それ以上でもそれ以下でもありません。そして多分次からはコンサート会場に足を運ぶことはないだろうと思いました。そしてその通り、それ以来、じょいじょいはコンサート会場に足を運んでいません。
誰にでも「うっかり発言」というものはあります。人は神様でも仙人でもありませんから、一度の失敗でその人のすべてを断罪するのは非情すぎるといえます。そのことはじょいじょいもよく理解しているつもりです。実際、じょいじょいなども何度となく失言やうっかりミスで赤っ恥をかいてきましたし。ですからayuを嫌いになったとか、誰それに謝るべきだなどと軽々にいうつもりはありません。
しかし、逆に、その発言からその人の根底にある人間性や価値観を垣間見ることができるというのもある意味真実です。じょいじょいはそのとき、ayuの「歌うこと」に取り組む姿勢の一端が見えた思いでした。生きることの奥深いところに「歌」が突き刺さっている、そういう「歌」との接し方をしてきた人なら、たとえ「うっかり」でもあのような発言はしないのではないかと。
この際、注意したいのは、ayuが誰に向けてあの言葉を発したかということは、それほど重要なことではないということです。ayuはアリーナの最前列に招待された関係者に対して言ったのだと悔しがっているようですが、問題はそんなことではなく、いろいろな理由で腰を下ろしている人々が、ayuの発言により、気まずい思いをし、周りに攻められているようなみじめな気分を味わわされたことにあるのです。
「ライブではスタンディングが基本」などという慣習やルールがあると思っている人がいるとしたら、それは大きな誤解だと思います、じょいじょいの知る限り。思うに、ライブハウスやディスコなどで元々イス席などない場合は当然スタンディングなわけで、それらと一緒くたに考えてしまっているのではないでしょうか。
同様に「歌に合わせて必ず手拍子をする」などという慣習やルールもありません。いやむしろバラード系では手拍子は控えるべきでしょう。
私は、真の「アーティスト」として尊敬する人のコンサートでは、敬意を払って、椅子に座ってじっくりとその生演奏、生歌唱を鑑賞したいと思います。もちろん、パーッとお祭り気分でayuと盛り上がりたいという人たちを否定しようとは思いませんし、彼らのためにじっくり歌を聴けなくても、残念ではありますが、仕方がないとも思っています。しかし、座るのは怠慢だと言われたら、それは事実と正反対であるがゆえに、反発と落胆を感じずにはいられません。
ファンにもいろいろなタイプがあります。そして何に期待してコンサートに行くかも人それぞれです。
とにかくayuと一緒にその場を盛り上げ、燃焼し尽くしたいという者もいれば、アーティストとしてのayuの紡ぎ出す、自室のCDでは得られない臨場感溢れる感動的な歌声にじっくり浸りたいと思って来る者もいます。スタンディングでayuの動きに合わせて飛び跳ねたり腕を頭上に上げて手拍子を打ったりすることに何の抵抗もない人もいれば、照れくさくてどうしてもできない人もいます。もちろん健常者もいれば足の不自由な人もいます。そして当然のことながらそれらの間にファンとしての優劣も思いの深さも真剣さも違いはありません。生身のayuを間近で見たい、触れ合いたいという思いの強さにも違いはありません。
じょいじょいはというと、「じっくり聴きたい派」であり、「恥ずかしくてモジモジ」派です。ayuの最初の全国ツアーの際も、じょいじょいは立たないつもりで会場に向かいました。それでもayuのファンであることにおいては誰にも負けないという自負がありました。結局は、前の席の人たちが立ったことによってステージ上のayuの姿が見えなくなってしまったため、やむを得ず最初から最後まで立ち続けることになってしまったのですが。
手拍子やウエーブその他のアクションについてもやはりつきあうつもりはありませんでした。が、こちらもその意志を貫徹するだけの勇気もなかったので、結局は嫌々みんなに合わせて行動する結果となりました。(それでもトラウマダンスはさすがにできませんでした) 信じられないくらいの照れ屋なものだから、たかが手拍子やウェーブとはいえ、極度の緊張のため、ayuの歌に十分没頭することができなかったのが今でも残念でなりません。ちなみにそのときのじょいじょいの席はアリーナ席中央やや右寄りの前から9列目、比較的ayuに近い場所でした。
次のコンサートだったかその次だったか、やはり立たないで済むなら座ったままじっくりayuのパフォーマンスに見入り聴き入りたいと思いながらも、これまで同様、立ってみんなと行動をともにするはめになってしまったのですが、このとき、何とayuが今回と同様の趣旨の発言をしました。
じょいじょいはそのとき耳を疑いました。それまでじょいじょいは「ayuは物のわかったアーティストだから、じょいじょいのようなじっくりアーティストのパフォーマンスに聴き入りたいというファンの気持ち、アーティストを≪アーティスト≫として真っ正面から受け止め感動を存分に享受したいと願っているファンの真摯な気持ちを十分理解してくれるはずだし、座っていることに対して文句を言うどころかむしろ、 『座ってじっくり聴いてください』とさえ言ってくれるに違いない」とまで信じていました。そしてそういうayuの「あたたかい理解」が多勢に無勢の中の唯一の「よすが」ですらあったのです。ちょっと大袈裟ですが。
ところが残念ながらそうではなかったようです。じょいじょいはいまでもそのときのことをよく覚えています。全身にひんやりしたものが駆けめぐる感覚を。そして自分が不当におとしめられている、あるいは自分の熱い思いが全く理解されていなかったという失望感で、いたたまれない気持ちに陥ったことを。それからコンサートが終わるまで、本当に針のむしろにいるような心の状態でした。
「ああ、ayuはまだまだ≪アーティスト≫ではないんだな」 それがそのときのじょいじょいの感想です。いや、何がアーティストで何がアーティストでないという議論をここでするつもりはありません。「私」は「そう感じた」のであり、それ以上でもそれ以下でもありません。そして多分次からはコンサート会場に足を運ぶことはないだろうと思いました。そしてその通り、それ以来、じょいじょいはコンサート会場に足を運んでいません。
誰にでも「うっかり発言」というものはあります。人は神様でも仙人でもありませんから、一度の失敗でその人のすべてを断罪するのは非情すぎるといえます。そのことはじょいじょいもよく理解しているつもりです。実際、じょいじょいなども何度となく失言やうっかりミスで赤っ恥をかいてきましたし。ですからayuを嫌いになったとか、誰それに謝るべきだなどと軽々にいうつもりはありません。
しかし、逆に、その発言からその人の根底にある人間性や価値観を垣間見ることができるというのもある意味真実です。じょいじょいはそのとき、ayuの「歌うこと」に取り組む姿勢の一端が見えた思いでした。生きることの奥深いところに「歌」が突き刺さっている、そういう「歌」との接し方をしてきた人なら、たとえ「うっかり」でもあのような発言はしないのではないかと。
この際、注意したいのは、ayuが誰に向けてあの言葉を発したかということは、それほど重要なことではないということです。ayuはアリーナの最前列に招待された関係者に対して言ったのだと悔しがっているようですが、問題はそんなことではなく、いろいろな理由で腰を下ろしている人々が、ayuの発言により、気まずい思いをし、周りに攻められているようなみじめな気分を味わわされたことにあるのです。
「ライブではスタンディングが基本」などという慣習やルールがあると思っている人がいるとしたら、それは大きな誤解だと思います、じょいじょいの知る限り。思うに、ライブハウスやディスコなどで元々イス席などない場合は当然スタンディングなわけで、それらと一緒くたに考えてしまっているのではないでしょうか。
同様に「歌に合わせて必ず手拍子をする」などという慣習やルールもありません。いやむしろバラード系では手拍子は控えるべきでしょう。
私は、真の「アーティスト」として尊敬する人のコンサートでは、敬意を払って、椅子に座ってじっくりとその生演奏、生歌唱を鑑賞したいと思います。もちろん、パーッとお祭り気分でayuと盛り上がりたいという人たちを否定しようとは思いませんし、彼らのためにじっくり歌を聴けなくても、残念ではありますが、仕方がないとも思っています。しかし、座るのは怠慢だと言われたら、それは事実と正反対であるがゆえに、反発と落胆を感じずにはいられません。
2002年01月21日
遅ればせながら『A BEST』について
以下の文には一部、読者のご指摘により、後日手を加えた部分があります。(最終更新:2002年2月24日)
『I am ...』が出た。さっそくピリ辛を書こうと思ったら、まだ『A BEST』について書いていないことに気づいた。時機を逸した感もなきにしもあらずだが、逆に、書くなら今しかないわけで、『I am ...』の感想を書く前に、今回は『A BEST』についてまとめようと思う。今の時期だからこそ見えてきたものもあるかもしれないということで。
『A BEST』はベストアルバムなので、収録曲ひとつひとつの評価をあらためてするつもりはない。論点は大きく次の3点に絞られる。
(1) 選曲
(2) 曲順
(3) 再録音
(1) 選曲
・「poker face」はなぜ選から漏れたか?
まず目を引くのは、デビューシングル「poker face」が収録されていないこと。 これは最初のベストアルバムとしては異例かもしれない。じょいじょいが思うに、今ここにいる「浜崎あゆみ」はまだそこにはいなかったという思いがayuにあるのかもしれない。半ば自暴自棄でアイドル的女優を辞め、街をぶらつく毎日から、専務に見いだされて幸運にも歌手としてデビューすることができた。しかし、その当時は専務に言われるままに詞を作り、勝手に曲をあてがわれ、勝手にデビュー曲の選曲をされ、デビューの日時を決められ、…という感じだったに違いない。まあ、これはたいていの新人歌手がそうなのだが、ほぼセルフプロデュースまでできている今のayuにとっては思い入れの少ないデビュー作だったのだろう。それはたとえば野口五郎のデビュー作は本当は「博多みれん」なのだが、世間的には「青いりんご」だとか(古い話ですんまそん)、ZONEのデビュー作が実は「secret base」ではなく、「GOOD DAYS」あるいはインディーズ時代まで含めると「believe in love」だとかいうことと同様といっていいかもしれない。
いまあらためてその詞を読み返してみると決して悪くない。いまのayuの下地は確かに感じられる。ただ「習作」と言われればそうかもしれない。いやむしろ、その後にリリースされた諸作品の水準がどれも非常に高いという方が正しい。ベストアルバム十数曲に、どうしても落とせない作品から拾い上げていったら、「poker face」が入りきれなかった… そういう意味からすると、今回の選曲は非常にバランス感覚のとれた選択だったとじょいじょいは思っている。ただ「それでも記念すべきデビュー作は外すなよ」という巷の声は聞こえてきそうだ。
なぜ「A Song for XX」が再録音されたか、というまた別の論点ともつながってくるのだが、選曲に関して言えば、このベストアルバムのayuにおける位置づけ、意味づけから紐解くのが近道だと思う。
最初に結論めいたことを言うことになるが、このベストアルバムは、デビューから今までのayuの足跡を辿っていくBiographyではなく、「今あなたの目の前にいる"浜崎あゆみ"というアーティストの自己紹介」なのだ。 そう考えると「poker face」がばっさり切り捨てられたことも合点がいく。いまのayuを語る上で「poker face」はたとえそれが記念すべきデビューシングルであったとしても重要ではないのだ。
・「YOU」はなぜ切り捨てられたか?
じょいじょいの知る限り、「YOU」はずっとayu自身のベスト3に入っていた作品だった。少なくとも2000年元旦の番組では、「Boys&Girls」と並んで「YOU」を挙げていたのを覚えている。初期の頃からのファンもこの作品に思い入れのある人は多いと思われる。じょいじょいもそのひとりなので、正直、今回のベストアルバムに「YOU」が収録されなかったことにショックを受けた。
「YOU」はayuの当時の親友で一時期同居していたnatsukiさんのことを歌ったと言われている。そのことから、natsukiさんとの決別がこの作品を切り捨てた理由といわれることがある。これについては肯定も否定もするネタを持ち合わせていない。そもそもnatsukiさんとの間に確執があったのか、その後もふたりの間に何らかのわだかまりが存在するのか、その後も全く付き合いがないのか、など単なるファンには知りようもないことが多すぎる。ayuがコンサートのMCの中で親友との別れについて語ったとも聞くが、ayuの発言のニュアンスから勝手に想像を膨らませて尾ひれを付けている部分がないか自戒したい。ただ穿った見方をすると、確かに結果的に今回のアルバムからはすっぽりと「natsukiさん的友情」の影が消え去っているといえなくもない。
ただ、いずれにしても、「YOU」が「古き良き時代のayu」の作品であることは間違いない。ayuがこの作品をベスト3に挙げてきたのも、これが「いまではもう決して書けない」類(たぐい)の純粋な友情を全肯定的に描き得た、ある意味他の代表作とは別格のものだからであり、それ以降の他のayuの「王道」をいく作品とは異質なものといえるだろう。ayuがこの作品をあえて採用しなかったのも、「今あなたの目の前にいる"浜崎あゆみ"というアーティストの自己紹介」としては、そういう異質さが気になったからという理由もあるのではないか。
ただ、ayuをデビュー当時から支えてきたファンの心理を考えたとき、やはり「YOU」を収録してほしかったとじょいじょいはつくづく思う。
・不採用のシングル、採用のアルバム収録曲について
初期のシングルの中から2曲程度を採用するという選択は全体の中での割合として妥当だと思う。では実際にどの曲を採用するかというと、途端に難しくなる。だからayuが最終的に「世間に一番知られているから」という理由で「Trust」と「Depend on you」を選んだことに反論する理由は全くない。売上だけ考えても初期の作品の中でこれらは他の倍からそれ以上の数字を出しているし、TVなどでの露出度も多かったようだ。
じょいじょいとしては個人的にどうしても「YOU」だけは外したくなかったし、「For My Dear」も捨てがたいが、収録曲の都合上仕方のないことだと思う。
初期作品以外のナンバーについては、「kanariya」が詞の面でも曲の面でもayuの一連の作品の中では異色なだけに、採用されなかったのが残念だ。ayuの作品の裾野の広さを示すのにはちょうど良い素材だと思うのだが。ただ、これも収録曲数と「これがayuです」という目的の両方を考えれば仕方のない選択かもしれない。
また、「A」は4曲のシングルから成るが、今回採用されたのはそのうちの2作品だった。採用されなかった「monochrome」と「too late」も根強い人気のある作品だが、これも同様の理由で頷ける選択だったと思う。
一方、シングルカットされなかったが今回のベストアルバムに収録された作品としては、「A Song for XX」と「Who...」がある。これについては文句のつけようがないだろう。ayuを語る上で絶対に外すことのできない名曲だと思う。これらがともにシングルとしてリリースされなかったのが不思議でもあり、逆におもしろい。
また、 もしも収録曲に余裕があれば、ぜひとも「ever free」と「immature」を入れてほしかった。
こういった意味で、ayuのこの時期でのベストアルバムということなら、2枚組にする必要があったのかもしれない。
(2) 曲順
ベストアルバムの通例にしたがって、ほぼリリース順に収録されている。これについては特にコメントすることはない。ちょっと違うのは、最初と最後だけこの順番を崩しているところ。最初が「A Song for XX」、締めくくりが「Who...」。これはayuファンにとっては涙ものの構成であり、十分納得できる「破綻」といえる。
こういうせっかくほぼ編年体になっているところにあえて手を入れてしまうところが、いかにも根っからの「女優」、自らを演出せずにはおれない性格を感じさせ、なかなかおもしろい。
(3) 再録音
・再録音の是非
このベストアルバムでは、「A Song for XX」と「Trust」、「Depend on you」の3作品についてボーカルも含めて録り直しを行っている。また、公式発表はないが、「End roll」も実はボーカルの録り直しを行っている。
ベストアルバムで録音し直しというのは、はっきりいって「掟破り」だと思う。それでもayuが踏み切ったのは、やはり先程述べた 「今あなたの目の前にいる"浜崎あゆみ"というアーティストの自己紹介」という命題が大きく物をいっているのだと思う。ayuの「世間的常識」を物ともしない心の強さが、それを強力に支えていることは言うまでもない。
上で挙げた最初の3つの作品については、デビューして半年間に作成されたものばかりで、ボーカル技術としては確かに稚拙なものを感じる。ayu本人の言葉でいうと「一生懸命音を外さないように」とばかり気を使って歌っているようなところがある。
しかし実は初期のayuファンはそういうayuの歌唱、線の細さにある種の緊張感のピンと張りつめた雰囲気が混じり合った独特のハイトーンボイスに、なにがしかの感動を覚えてファンになっていったともいえるわけで、一概に技術が未熟だからということで切り捨てることはできない。
だから個人的には今回のベストアルバムでその辺をいじってほしくなかった。過去のayuも確かにayuであり、それを否定するような、悪くいうと「経歴詐称」的なことはしてほしくなかった。(あえてひどい表現を使った)
もしも過去の音入れが気に入らないのであれば、今回のベストアルバムとは別に、音を入れ直したアルバムを出せばいい。今までのアーティストだって、そうやって来たのだし、手を変え品を変えて次々とアルバムを出すのはそれこそavexにとっては得意中の得意のはず。
・再録音版の評価(「A Song for XX」、「Depend on you」)
ayuは以前に比べて歌が格段に上手くなったといわれる。声質や声の出し方は別にして、確かにボーカル技法についてはいろいろと吸収しているようだ。しかし、技術というものは、音楽に限らず、ただ吸収しただけではだめで、それが無意識の域にまで同化しなければ、プロとして、目(耳)の肥えた識者を満足させることはできない。宇多田ヒカルがすごいのは、あの歳でそのR&Bとも演歌とも言えぬ独特の情緒的雰囲気を完全に自分のものにしている点にある。そこには微塵も「技巧」や「作為」を感じさせない。ごく自然に自分を表出しているようで、その実、豊富な経験と技術によって強力に裏打ちされているのである。
それに引き替え、ayuが「A Song for XX」や「Depend on you」などの新録で見せているテクニックは、「はい、ここで私は私が技巧と思っているものを使いました」、「ここで私はこの技巧を使ってこのような効果を出そうと狙っています」と語りかけてくるような技巧の使い方であり、鼻につくとともに、聴いているこちらがちょっと気恥ずかしくなってもくる。ちょうどまだ駆け出しのマジシャンが、観客にネタがばればれなのも知らず、一生懸命マジックを演じているのを白々しくも応援しながら黙って見守っている観客の心境といえばいいか。もちろん、タネに気づいていない観客にとってはすばらしいマジックショーなわけだが。
この「自分のものにできていない」技巧をわかりやすい例で示すと、たとえば、「Depend on you」でいえば、「そこからふたりで〜始めよう」の「〜」の部分とか、「本当はまだ遠いこと気付いたの? 」の「?」の伸ばす部分、「A Song for XX」でいえば「居場所がなかった〜」の「〜」の部分や「未来には期待できるのか〜わからずに」の「〜」や「一人きりで生まれ〜て、一人きりで」の「〜」の部分がそうである。
さらにこの「ピリ辛」でも再三言ってきたことだが、深刻さを強調する過剰表現、絶叫調の歌い方も同様の逆効果を感じる。さきほど例に挙げた「未来には期待できるのかわからずに〜〜」の「〜〜」の伸ばし方や声を無理矢理喉の奥から出して、わざとかすれた声を加える歌い方がそうだ。
と、ここまで散々悪口に近いことを書いてきたが、しかし全体として新録の「A Song for XX」が以前のものより劣っているというつもりは毛頭ない。旧録の欠点である歌い方の稚拙さを十分補い、作品としての質を上げることに成功していることは間違いない。ただ技巧が技巧として見え隠れしてしまうために、この作品の長所である、純粋さとか一途さが逆に失われてしまう結果になっている部分も見られるということだ。
・再録音版の評価(「Trust」)
もうひとつの新録「Trust」については上記のような技巧の中途半端な適用という欠点はほとんど見られない。では、こちらは新録の方がいいかというと必ずしもそうは言えない。
ayuのバラード系の歌い方は、一昨年の後半あたり、いろんな歌番組や賞がらみの番組で「SEASONS」をくり返し歌うようになった時期に劇的な変化を見せた。それまでは地声によるノンビブラートの直線的な歌声だったのに、その頃から、ビブラートを聞かせた柔らかい歌い方に変わってきたのだ。この歌い方と、4年近くの歌い手としての経験からくる余裕が、「SEASONS」の魅力をさらに引き出す役割を果たしてくれた。その成果がこの「Trust」の新録にも生かされているわけだが、 問題は、じょいじょいが「Trust」に感じていた魅力が、この改良によって逆に失われてしまったと感じるところにある。少なくともじょいじょいにとって、この「A BEST」版の「Trust」はもはやオリジナルの「Trust」とは別の作品だと感じられるのだ。
じょいじょいにとって、この作品の魅力は、孤独に生きてきた自分が、万感の信頼を寄せることのできる伴侶を見い出せた喜びと、そこから生まれた強く生きていこうという新たな意志とを絶妙な言葉と曲で表現し得ているところにあると思っている。ところが、新録の「Trust」では、その歌い方が悪い方に影響して、独りで生きていこうとする強い意志が希薄になり、女性的な相手への依存心が表に出て、俗世間的な恋愛ソングに近いものになっていると感じるのだ。
・再録音版の評価(「End roll」)
「End roll」は正式には再録音と認められていない。しかし、注意深く聴いてみると、ボーカルだけ録り直していることがわかる。特にサビの部分がわかりやすいと思う。
この歌を録り直した理由はわからない。オリジナルに難があるとは決して思えない。もしかしたら、『LOVEppears』で「Who...」の後に「kanariya」をこっそりシークレットトラックとして封入したように、ファンサービスの一環としてのいたずらっ気が今回の「End roll」の撮り直しの理由のすべてかもしれない。いずれにしても、この再録はなかなか良い出来だと思う。この作品に関する限り、ayuのボーカリストとしての成長ぶりがうまく生かされており、前述したいくつかの欠点はほとんど現れてこない。「End roll」をますます好きにさせてくれた。
(4) おわりに
『A BEST』は宇多田ヒカルとの同時発売、「世紀の歌姫対決」という話題作りと相まって、400万枚超という空前の売上を達成した。この数字はHikkiの1stアルバム700万枚超や、B'zのベストアルバム500万枚超などには及ばないとはいえ、やはりものすごい数字には違いない。そして、こうやって改めてそのラインナップを眺めてみると、ayuがいかにすばらしい楽曲に恵まれてきたかということが実感される。失敗作といえる作品がほとんど見あたらない。と同時に、では楽曲さえ良ければそれでこれだけ売れたかというとそうではなく、やはりayuの作詞能力と独特の歌唱があってこそ、これだけの優れたベストアルバムが結実されたといえるだろう。さらに作詞能力といっても、一般的なJ-POP音楽がどちらかというと紋切り型の空想物語を想定した上で、その一断片を薄く切り取っている印象があるのに対して、ayuのそれは、自分自身の精神世界、生き方をそのまま言語化してさらけ出し、聴き手と共有化することに成功している。その精神世界は底なしの暗黒の闇、透徹した孤独を想起させるが、にもかかわらずそれが決して絶望に終始せず、未来のかすかな明かりの存在を常に模索しているところが、聴き手に独特のカタルシスをもたらすのだと思う。『A BEST』はこの独特のayuワールドを効果的に堪能できる作品に仕上がっている。
『I am ...』が出た。さっそくピリ辛を書こうと思ったら、まだ『A BEST』について書いていないことに気づいた。時機を逸した感もなきにしもあらずだが、逆に、書くなら今しかないわけで、『I am ...』の感想を書く前に、今回は『A BEST』についてまとめようと思う。今の時期だからこそ見えてきたものもあるかもしれないということで。
『A BEST』はベストアルバムなので、収録曲ひとつひとつの評価をあらためてするつもりはない。論点は大きく次の3点に絞られる。
(1) 選曲
(2) 曲順
(3) 再録音
(1) 選曲
・「poker face」はなぜ選から漏れたか?
まず目を引くのは、デビューシングル「poker face」が収録されていないこと。 これは最初のベストアルバムとしては異例かもしれない。じょいじょいが思うに、今ここにいる「浜崎あゆみ」はまだそこにはいなかったという思いがayuにあるのかもしれない。半ば自暴自棄でアイドル的女優を辞め、街をぶらつく毎日から、専務に見いだされて幸運にも歌手としてデビューすることができた。しかし、その当時は専務に言われるままに詞を作り、勝手に曲をあてがわれ、勝手にデビュー曲の選曲をされ、デビューの日時を決められ、…という感じだったに違いない。まあ、これはたいていの新人歌手がそうなのだが、ほぼセルフプロデュースまでできている今のayuにとっては思い入れの少ないデビュー作だったのだろう。それはたとえば野口五郎のデビュー作は本当は「博多みれん」なのだが、世間的には「青いりんご」だとか(古い話ですんまそん)、ZONEのデビュー作が実は「secret base」ではなく、「GOOD DAYS」あるいはインディーズ時代まで含めると「believe in love」だとかいうことと同様といっていいかもしれない。
いまあらためてその詞を読み返してみると決して悪くない。いまのayuの下地は確かに感じられる。ただ「習作」と言われればそうかもしれない。いやむしろ、その後にリリースされた諸作品の水準がどれも非常に高いという方が正しい。ベストアルバム十数曲に、どうしても落とせない作品から拾い上げていったら、「poker face」が入りきれなかった… そういう意味からすると、今回の選曲は非常にバランス感覚のとれた選択だったとじょいじょいは思っている。ただ「それでも記念すべきデビュー作は外すなよ」という巷の声は聞こえてきそうだ。
なぜ「A Song for XX」が再録音されたか、というまた別の論点ともつながってくるのだが、選曲に関して言えば、このベストアルバムのayuにおける位置づけ、意味づけから紐解くのが近道だと思う。
最初に結論めいたことを言うことになるが、このベストアルバムは、デビューから今までのayuの足跡を辿っていくBiographyではなく、「今あなたの目の前にいる"浜崎あゆみ"というアーティストの自己紹介」なのだ。 そう考えると「poker face」がばっさり切り捨てられたことも合点がいく。いまのayuを語る上で「poker face」はたとえそれが記念すべきデビューシングルであったとしても重要ではないのだ。
・「YOU」はなぜ切り捨てられたか?
じょいじょいの知る限り、「YOU」はずっとayu自身のベスト3に入っていた作品だった。少なくとも2000年元旦の番組では、「Boys&Girls」と並んで「YOU」を挙げていたのを覚えている。初期の頃からのファンもこの作品に思い入れのある人は多いと思われる。じょいじょいもそのひとりなので、正直、今回のベストアルバムに「YOU」が収録されなかったことにショックを受けた。
「YOU」はayuの当時の親友で一時期同居していたnatsukiさんのことを歌ったと言われている。そのことから、natsukiさんとの決別がこの作品を切り捨てた理由といわれることがある。これについては肯定も否定もするネタを持ち合わせていない。そもそもnatsukiさんとの間に確執があったのか、その後もふたりの間に何らかのわだかまりが存在するのか、その後も全く付き合いがないのか、など単なるファンには知りようもないことが多すぎる。ayuがコンサートのMCの中で親友との別れについて語ったとも聞くが、ayuの発言のニュアンスから勝手に想像を膨らませて尾ひれを付けている部分がないか自戒したい。ただ穿った見方をすると、確かに結果的に今回のアルバムからはすっぽりと「natsukiさん的友情」の影が消え去っているといえなくもない。
ただ、いずれにしても、「YOU」が「古き良き時代のayu」の作品であることは間違いない。ayuがこの作品をベスト3に挙げてきたのも、これが「いまではもう決して書けない」類(たぐい)の純粋な友情を全肯定的に描き得た、ある意味他の代表作とは別格のものだからであり、それ以降の他のayuの「王道」をいく作品とは異質なものといえるだろう。ayuがこの作品をあえて採用しなかったのも、「今あなたの目の前にいる"浜崎あゆみ"というアーティストの自己紹介」としては、そういう異質さが気になったからという理由もあるのではないか。
ただ、ayuをデビュー当時から支えてきたファンの心理を考えたとき、やはり「YOU」を収録してほしかったとじょいじょいはつくづく思う。
・不採用のシングル、採用のアルバム収録曲について
初期のシングルの中から2曲程度を採用するという選択は全体の中での割合として妥当だと思う。では実際にどの曲を採用するかというと、途端に難しくなる。だからayuが最終的に「世間に一番知られているから」という理由で「Trust」と「Depend on you」を選んだことに反論する理由は全くない。売上だけ考えても初期の作品の中でこれらは他の倍からそれ以上の数字を出しているし、TVなどでの露出度も多かったようだ。
じょいじょいとしては個人的にどうしても「YOU」だけは外したくなかったし、「For My Dear」も捨てがたいが、収録曲の都合上仕方のないことだと思う。
初期作品以外のナンバーについては、「kanariya」が詞の面でも曲の面でもayuの一連の作品の中では異色なだけに、採用されなかったのが残念だ。ayuの作品の裾野の広さを示すのにはちょうど良い素材だと思うのだが。ただ、これも収録曲数と「これがayuです」という目的の両方を考えれば仕方のない選択かもしれない。
また、「A」は4曲のシングルから成るが、今回採用されたのはそのうちの2作品だった。採用されなかった「monochrome」と「too late」も根強い人気のある作品だが、これも同様の理由で頷ける選択だったと思う。
一方、シングルカットされなかったが今回のベストアルバムに収録された作品としては、「A Song for XX」と「Who...」がある。これについては文句のつけようがないだろう。ayuを語る上で絶対に外すことのできない名曲だと思う。これらがともにシングルとしてリリースされなかったのが不思議でもあり、逆におもしろい。
また、 もしも収録曲に余裕があれば、ぜひとも「ever free」と「immature」を入れてほしかった。
こういった意味で、ayuのこの時期でのベストアルバムということなら、2枚組にする必要があったのかもしれない。
(2) 曲順
ベストアルバムの通例にしたがって、ほぼリリース順に収録されている。これについては特にコメントすることはない。ちょっと違うのは、最初と最後だけこの順番を崩しているところ。最初が「A Song for XX」、締めくくりが「Who...」。これはayuファンにとっては涙ものの構成であり、十分納得できる「破綻」といえる。
こういうせっかくほぼ編年体になっているところにあえて手を入れてしまうところが、いかにも根っからの「女優」、自らを演出せずにはおれない性格を感じさせ、なかなかおもしろい。
(3) 再録音
・再録音の是非
このベストアルバムでは、「A Song for XX」と「Trust」、「Depend on you」の3作品についてボーカルも含めて録り直しを行っている。また、公式発表はないが、「End roll」も実はボーカルの録り直しを行っている。
ベストアルバムで録音し直しというのは、はっきりいって「掟破り」だと思う。それでもayuが踏み切ったのは、やはり先程述べた 「今あなたの目の前にいる"浜崎あゆみ"というアーティストの自己紹介」という命題が大きく物をいっているのだと思う。ayuの「世間的常識」を物ともしない心の強さが、それを強力に支えていることは言うまでもない。
上で挙げた最初の3つの作品については、デビューして半年間に作成されたものばかりで、ボーカル技術としては確かに稚拙なものを感じる。ayu本人の言葉でいうと「一生懸命音を外さないように」とばかり気を使って歌っているようなところがある。
しかし実は初期のayuファンはそういうayuの歌唱、線の細さにある種の緊張感のピンと張りつめた雰囲気が混じり合った独特のハイトーンボイスに、なにがしかの感動を覚えてファンになっていったともいえるわけで、一概に技術が未熟だからということで切り捨てることはできない。
だから個人的には今回のベストアルバムでその辺をいじってほしくなかった。過去のayuも確かにayuであり、それを否定するような、悪くいうと「経歴詐称」的なことはしてほしくなかった。(あえてひどい表現を使った)
もしも過去の音入れが気に入らないのであれば、今回のベストアルバムとは別に、音を入れ直したアルバムを出せばいい。今までのアーティストだって、そうやって来たのだし、手を変え品を変えて次々とアルバムを出すのはそれこそavexにとっては得意中の得意のはず。
・再録音版の評価(「A Song for XX」、「Depend on you」)
ayuは以前に比べて歌が格段に上手くなったといわれる。声質や声の出し方は別にして、確かにボーカル技法についてはいろいろと吸収しているようだ。しかし、技術というものは、音楽に限らず、ただ吸収しただけではだめで、それが無意識の域にまで同化しなければ、プロとして、目(耳)の肥えた識者を満足させることはできない。宇多田ヒカルがすごいのは、あの歳でそのR&Bとも演歌とも言えぬ独特の情緒的雰囲気を完全に自分のものにしている点にある。そこには微塵も「技巧」や「作為」を感じさせない。ごく自然に自分を表出しているようで、その実、豊富な経験と技術によって強力に裏打ちされているのである。
それに引き替え、ayuが「A Song for XX」や「Depend on you」などの新録で見せているテクニックは、「はい、ここで私は私が技巧と思っているものを使いました」、「ここで私はこの技巧を使ってこのような効果を出そうと狙っています」と語りかけてくるような技巧の使い方であり、鼻につくとともに、聴いているこちらがちょっと気恥ずかしくなってもくる。ちょうどまだ駆け出しのマジシャンが、観客にネタがばればれなのも知らず、一生懸命マジックを演じているのを白々しくも応援しながら黙って見守っている観客の心境といえばいいか。もちろん、タネに気づいていない観客にとってはすばらしいマジックショーなわけだが。
この「自分のものにできていない」技巧をわかりやすい例で示すと、たとえば、「Depend on you」でいえば、「そこからふたりで〜始めよう」の「〜」の部分とか、「本当はまだ遠いこと気付いたの? 」の「?」の伸ばす部分、「A Song for XX」でいえば「居場所がなかった〜」の「〜」の部分や「未来には期待できるのか〜わからずに」の「〜」や「一人きりで生まれ〜て、一人きりで」の「〜」の部分がそうである。
さらにこの「ピリ辛」でも再三言ってきたことだが、深刻さを強調する過剰表現、絶叫調の歌い方も同様の逆効果を感じる。さきほど例に挙げた「未来には期待できるのかわからずに〜〜」の「〜〜」の伸ばし方や声を無理矢理喉の奥から出して、わざとかすれた声を加える歌い方がそうだ。
と、ここまで散々悪口に近いことを書いてきたが、しかし全体として新録の「A Song for XX」が以前のものより劣っているというつもりは毛頭ない。旧録の欠点である歌い方の稚拙さを十分補い、作品としての質を上げることに成功していることは間違いない。ただ技巧が技巧として見え隠れしてしまうために、この作品の長所である、純粋さとか一途さが逆に失われてしまう結果になっている部分も見られるということだ。
・再録音版の評価(「Trust」)
もうひとつの新録「Trust」については上記のような技巧の中途半端な適用という欠点はほとんど見られない。では、こちらは新録の方がいいかというと必ずしもそうは言えない。
ayuのバラード系の歌い方は、一昨年の後半あたり、いろんな歌番組や賞がらみの番組で「SEASONS」をくり返し歌うようになった時期に劇的な変化を見せた。それまでは地声によるノンビブラートの直線的な歌声だったのに、その頃から、ビブラートを聞かせた柔らかい歌い方に変わってきたのだ。この歌い方と、4年近くの歌い手としての経験からくる余裕が、「SEASONS」の魅力をさらに引き出す役割を果たしてくれた。その成果がこの「Trust」の新録にも生かされているわけだが、 問題は、じょいじょいが「Trust」に感じていた魅力が、この改良によって逆に失われてしまったと感じるところにある。少なくともじょいじょいにとって、この「A BEST」版の「Trust」はもはやオリジナルの「Trust」とは別の作品だと感じられるのだ。
じょいじょいにとって、この作品の魅力は、孤独に生きてきた自分が、万感の信頼を寄せることのできる伴侶を見い出せた喜びと、そこから生まれた強く生きていこうという新たな意志とを絶妙な言葉と曲で表現し得ているところにあると思っている。ところが、新録の「Trust」では、その歌い方が悪い方に影響して、独りで生きていこうとする強い意志が希薄になり、女性的な相手への依存心が表に出て、俗世間的な恋愛ソングに近いものになっていると感じるのだ。
・再録音版の評価(「End roll」)
「End roll」は正式には再録音と認められていない。しかし、注意深く聴いてみると、ボーカルだけ録り直していることがわかる。特にサビの部分がわかりやすいと思う。
この歌を録り直した理由はわからない。オリジナルに難があるとは決して思えない。もしかしたら、『LOVEppears』で「Who...」の後に「kanariya」をこっそりシークレットトラックとして封入したように、ファンサービスの一環としてのいたずらっ気が今回の「End roll」の撮り直しの理由のすべてかもしれない。いずれにしても、この再録はなかなか良い出来だと思う。この作品に関する限り、ayuのボーカリストとしての成長ぶりがうまく生かされており、前述したいくつかの欠点はほとんど現れてこない。「End roll」をますます好きにさせてくれた。
(4) おわりに
『A BEST』は宇多田ヒカルとの同時発売、「世紀の歌姫対決」という話題作りと相まって、400万枚超という空前の売上を達成した。この数字はHikkiの1stアルバム700万枚超や、B'zのベストアルバム500万枚超などには及ばないとはいえ、やはりものすごい数字には違いない。そして、こうやって改めてそのラインナップを眺めてみると、ayuがいかにすばらしい楽曲に恵まれてきたかということが実感される。失敗作といえる作品がほとんど見あたらない。と同時に、では楽曲さえ良ければそれでこれだけ売れたかというとそうではなく、やはりayuの作詞能力と独特の歌唱があってこそ、これだけの優れたベストアルバムが結実されたといえるだろう。さらに作詞能力といっても、一般的なJ-POP音楽がどちらかというと紋切り型の空想物語を想定した上で、その一断片を薄く切り取っている印象があるのに対して、ayuのそれは、自分自身の精神世界、生き方をそのまま言語化してさらけ出し、聴き手と共有化することに成功している。その精神世界は底なしの暗黒の闇、透徹した孤独を想起させるが、にもかかわらずそれが決して絶望に終始せず、未来のかすかな明かりの存在を常に模索しているところが、聴き手に独特のカタルシスをもたらすのだと思う。『A BEST』はこの独特のayuワールドを効果的に堪能できる作品に仕上がっている。

